山川 咲

CRAZY WEDDING創設者 I 起業家 40歳を超えて1児の母。結婚式はもちろん、出産時に個展「うまれる」、2024年の離婚の時には離婚式を開催し、常に人生そのものを表現しようとし続けている。結婚・教育・環境などの世界でジャンヌダルクのように戦ってきて現在に至る。

山川 咲

CRAZY WEDDING創設者 I 起業家 40歳を超えて1児の母。結婚式はもちろん、出産時に個展「うまれる」、2024年の離婚の時には離婚式を開催し、常に人生そのものを表現しようとし続けている。結婚・教育・環境などの世界でジャンヌダルクのように戦ってきて現在に至る。

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書くとはデトックス。救い。そして生きること。

夜明けに家を出て、今はもう平和で明るい大阪に向かう始発の新幹線の中。いきなり決まった出張にぽっかりと空いた忙しいはずの朝に、「書こう」と思い続けるのをやめて、今日「書く」と、腹を決めて、今に至る。 書くことが私にとってはとても大事。でも、書くことに助けられてきた私は最近、書くことにブランクがある。子供優先で時間が取れない。時間がぶつ切り。仕事で集中できない…と言い訳は色々あるけれど、私にとって書くことは生きることにも近しいから、それ=生きること を欺くのはやめようと思った。

    • 切なさを泳ぐ

      珍しく保育園に遅刻して、駅に向かって歩き始めた年長のグループを商店街の中に見つけて 追いつき、私と2人で息を切らした娘は、2人ずつ手を繋いで歩くそのグループに駆け寄る。9人クラスだから、私に手を振ると1人で少しだけ寂しそうに、誰とも手を繋がず1番後ろを1人で歩き始めた。 私から見える最後の角で何度も手を振って、角の向こうの壁に映る娘の影が、その先でも手を振り続けていたことを教えてくれて、それもすぐに見えなくなった。忙しい朝だけど、時が止まったように、私はその角を見つめ続ける

      • 40歳の、肖像。

        40歳になる日が、来るなんて。 人生というものに向き合いすぎて、著名な文豪たちが多く自殺しているのを見聞きして、私もこんなにも自分の人生について考えてる限り、自分は長くは生きられないのでは、とどこかで思っていた。今はもう思わないけれど、自殺する未来、は他人のそれではなかったと思う。具体ではないけれど、死ぬということも生きるということも、自分のポケットに入れて、それにいつも触れていたような感覚がある。 今から思えば、10代の前半という多感な時期。目の前のそれしかない世界と対

        • 開校決定までの光と影。神山まるごと高専、山川咲の視点で。

          明日、6時台の東北に向かう新幹線に乗らなくてはならず、東京駅のホテルメトロポリタンの32階の角部屋にいた。明日の予定のこともあるけれど、今日はどうしても1人で過ごしたかった。時は、9月の終わり。それは私にとってひとつのとても大きな区切りみたいな月の終わりだった。 神山まるごと高専の開校が決定し、私の本丸であるイベントという場を通しての報告会が終わった月。クリエイティブディレクターとして創業メンバーとして、直走った私からのViewでこの学校を作った1年半、その光と影を、をここ

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        書くとはデトックス。救い。そして生きること。

          今日も、あの日々と生きている。

          日々はいつだって、同じように流れていくのに、時空が歪むほど引き伸ばされた濃い時間だけが、私たちの記憶に残る。流れる時間は平等なのに、記憶はそうじゃない。圧倒的に偏ったウェイトで私たちは、過去を自分の中にしまっている。 それを思い出して、引っ張り出して、それを味わうことが人生の目的の一つだと思う。 今回、新卒で働いていた同期と数日の旅をした。仲間の1人が10年経営した会社をバイアウトしたことと、また違う1人がハワイ島にしばらく暮らすということ、そして同期であり私がCRAZY

          今日も、あの日々と生きている。

          北の記憶と、2021年の暑い夏。

          北海道に1週間ほど行った時、熊除け(催涙)スプレーを持ち歩き、山々を歩いて暮らした最終日に、1人で湿地帯を見下ろす展望台に登った。車で向かったそこまでの道のりで自然は、深まるばかりで、到着した駐車場には誰もいなく、今ここで何かに襲われたら助からないなと思った。もちろん、ここにも熊がいると思う。いや、必ずいる。いると書いてある。笑 そんな場所をたった1人スプレーも持たずに歩く。階段を登って、砂利の細い山道を蛇行して上り、もう一度最後の階段を上る。 絶え間なく周りを見廻し、遠く

          北の記憶と、2021年の暑い夏。

          サヨナラ、クレイジーウェディング。

          7月2日、今日からCRAZYは10年目に突入。27歳で始めたあの熱くて青くてまっさらだったCRAZYは9歳を迎え、私は37歳になった。 朝、ベットで森ちゃんにおはようをして、「CRAZY9周年おめでとう!」と元気にハグしたら、ゆったりとしたトーンで「咲ちゃんもおめでとう。咲ちゃんが作った、咲ちゃんから始まった会社だよ」と言われて、じんわりと込み上げるものがあった。 そんなCRAZYから、私自身が独立して1年と3ヶ月。今日、創業事業であるオーダーメイドウェディングの事業を縮

          サヨナラ、クレイジーウェディング。

          忘れてしまうもので、人生はできている。

          怖いとか、寂しいとか、悲しいとか、そういう気持ちを私は嫌いじゃない。それらがなくて、楽しいだけの人生なら私はむしろ死んでしまうな、とさえ思う。 ずっと同じじゃいられないこととか、誰しもに別れがあることとか、1人で生きていくこととか、そういうことを見ないふりするよりも、それを理解してなお、誰かと一緒にいたいと強く思って、その瞬間を愛して、別れや終わりを恐れず受け止めて、しっかり傷ついて前に進んでいく。そんな裸で生きる彩ある人生を、ぎゃーぎゃー言いながらも、私はきっと愛している

          忘れてしまうもので、人生はできている。

          それは旅だった。5年の、そして人生の。

          このノートは2019年10月4日に書いて、ひっそりとしまってあったものです。 涙が止まらなかった。ただその空間に入り、植物を眺め、ただ数分の映像を見ただけなのに。そこにあったのは、何なのだろう。 フローリストTSUBAKI5周年のエキシビジョン。駐車場が3つも満車で、随分と遠いところに止めた駐車場から、約束された時間に少し遅れて会場へ向かう。TSUBAKIがある、あの通りを見るのが好きだ。住宅街の一角に、ふさふさと緑が揺らぐオアシスみたいな異次元の場所。「今日は風なんて吹

          それは旅だった。5年の、そして人生の。

          8ヶ月のサバティカルを終えて

          「30代分くらいは一生懸命働いたんだから、もう少しゆっくりしていたら?」と、独立後の2020 年3月末からの自由な日々のなかで、どこか湧き上がる「何かしなくては」と焦る気持ちを、幾度も自分で落ち着けてきた。最近はもしかしたら、あと数年続くのかもしれないと思ってきた私のそんなサバティカルは、ところが8ヶ月で突然に終わりを告げた。 それは奄美大島に住まい、全国を旅して、キャンピングカーの旅を終えた秋のこと。独立から季 節が3つも変わっていた。急に「まさか!」も含めた様々なオファ

          8ヶ月のサバティカルを終えて

          旅に出ます。探さないでください。

          約1ヶ月キャンピングカーで旅に出る。この数年、旅に出るのは何かに窮している時が多かった。頑張って疲弊して、もう旅しか癒しがない瞬間もたくさんあった。「旅に出ます。探さないでください」は、私のお家芸でもあった。笑 だからこんな晴れやかな気持ちで旅に出るのは、なんとも久しぶりだった。10日1人で、10日英と一緒に、最後に森ちゃんも合流して家族で旅をする予定。各地で乗り込んできたり会ったりする人は何人もいるけれど。 携帯を置いていくつもりだったが、カーナビがなくて仕方なく連れてき

          旅に出ます。探さないでください。

          自由と、寂しさと。

          2020年初秋。私は昔よりもずっと自由になっていた。そして相変わらず、どこか寂しかった。事業も、子育ても以前に比べたら無いようなもので、忙しさが何も紛らわしてくれなくて。目の前の寂しさを、素手ですくいあげるしかなかった。でもまじまじと見るそれはやはり、生きる実感とか、人間らしさとか、そのものみたいだと思った。 仕事よりも、付き合いよりも、子育てよりも、自分が先に立つ自由さ。だからこそごまかすことのできない、圧倒的に一人だというこの感覚。往生際悪く、孤独をごまかして生きようと

          自由と、寂しさと。

          CRAZYから独立した、私の告白。森へみんなへ。

          まだ何も書いてないのに、タイトルと写真を入れただけで涙が出そうだ。会社を辞めて半年。その後のこともあれこれ気になってしまいそうだから、なるべく顔を突っ込まないようにと思っていた…が、結局のところ私は一時的に奄美大島で、CRAZYのことも過去のことも思い出す暇もなく、過ごせなかった日々を取り戻すかのように、ただ娘と毎日を暮らすことに没頭していた。会社について、新しい事業もオフィスの移転もなにも知らず、世間と同じようにSNSやプレスリリースを読んで知るような日々。見事かな私は、未

          CRAZYから独立した、私の告白。森へみんなへ。

          「知っている」の向こう側

          毎日は忙しい。めまぐるしく転がるように日々は進んで行く。早すぎるのではないかと思っても、その波に乗らなければ、自分はどこまでも墜落してしまうかのような勢いなもんだから、そんな日々に「待った」をかけることは、正常な人のすることではないように思ってしまう。立ち止まることは誰しもにとって、そして私にとっても、いつだって難しくて、怖いことである。 それでも、人生にはそんな日々から飛び出して、「ぽっかりと自分の人生だけが存在する時間」が、「それが他の何よりも圧倒的に重要だと、腹の底か

          「知っている」の向こう側

          立ち上げた会社をなぜ辞めるのか

          2020年、3月末に自分が立ち上げたCRAZYから独立をした。もちろん、CRAZY WEDDINGやIWAI OMOTESANDOからも、だ。今日7/2は、そのCRAZY Incにとって大事な創立記念日。 28歳、起業をした時の私がこれを知ったら、驚きのあまり悲鳴をあげるだろう。「社長の森ちゃんが会社を辞めることがあったとしても、私だけは絶対ありえない!」と豪語するくらいCRAZYという会社は私そのものだと信じて止まなかった。青い青い時を駆け抜けてきた日々。 たくさんの迷

          立ち上げた会社をなぜ辞めるのか

          あぁ、この感覚だ。息をするって。 ー”Close Contact”開催にあたり

          一つの世界を突き詰めるだけでは永遠にたどり着けないものに、そっとたどり着けたような、辿り着けないと思い込んでいた呪いがすっと解けたような、そんな境地にいる。変わることを求め続けた自分が、変わらない部分をそっと初めて愛せたような。 アーティストとしての初のエキシビション、”Close Contact”が誰かに、ではなく私に与えたもの。 思い立った時は、3週間を切っていただろうか。それでも、コロナに震える不安定な時代の切れ目に、オンラインでほぼ全てが進んで行けることがそっと証

          あぁ、この感覚だ。息をするって。 ー”Close Contact”開催にあたり