開校決定までの光と影。神山まるごと高専、山川咲の視点で。
明日、6時台の東北に向かう新幹線に乗らなくてはならず、東京駅のホテルメトロポリタンの32階の角部屋にいた。明日の予定のこともあるけれど、今日はどうしても1人で過ごしたかった。時は、9月の終わり。それは私にとってひとつのとても大きな区切りみたいな月の終わりだった。
神山まるごと高専の開校が決定し、私の本丸であるイベントという場を通しての報告会が終わった月。クリエイティブディレクターとして創業メンバーとして、直走った私からのViewでこの学校を作った1年半、その光と影を、をここに残しておかなくてはと、東京駅の真上、美しく忙しい街を見下ろしながら、黙々とPCを叩き続けた。
9月。2年前のちょうど同じ月に、ISAK 小林りんさんからメッセンジャーが来た。ある人が学校を作ろうとしていて、それはとても面白く、理事長を探してて、咲ちゃんがぴったりだと思ったから、責任がない形で構わないので会ってもらえないか、という趣旨だった。
CRAZYから独立して半年。尊敬するりんさんがいうならと、二つ返事で快諾して、繋がれた方と二日後の朝8時とか9時とかいう早朝に、2人でお会いした。寺田 親弘との出会いだ。きっと、普通にしていたらどうやっても、彼とこの人生でニアミスすることすらなかったほど、コミュニティも領域も、対岸にいるような存在だった。でも、話を聞いて、高専というシステムがとても面白いと思ったのと、この人とはタイプは違うが相性がいいと思えた。野武士を育てたいという言葉にも、私(山川咲)が介在する意味を勝手に見出した。もうすぐ寒くなる予感のする、秋の出来事だった。
方々の取材等でエピソードが語られているが、私は2ヶ月間、理事長になって欲しいというオファーに真剣に向き合った。数度神山に足を運び、会議をいくつも見せてもらった。そして最後に、魅力的なオファーだけど私は理事長をやるべきでない、という結論に至った。
クロージングのやりとりや言動を見るに、寺田さんは素晴らしく優秀でストイックで、私が理事長になったら、物事を絶対に下振れさせない寺田さんと私の対比が想像できた。責任を求められる理事長というポジションでは、私の良さは活きないだろうという冷静なジャッジもあった。私に賭けてくれていることがわかっていから、申し訳ないなと思いながら、最終局面のアポの日程が決まった。最初に、半分も可能性がないと言ったら、「半分近くはあるのか、とテンション上がっています」と返答する寺田さんは、断られるとは思わない性分だと思いながらも、気が重いアポの朝だった。
彼の理事長探しがまた0からだと思うと、申し訳なくて居た堪れなくて、りんさんに連絡をした。この2年で2回、本当に迷ったり葛藤した時に、りんさんに連絡しているが、りんさんは針に系を通すようなスケジュールにもかかわらず、空いた5分とかでいつでもどうにかすぐに電話をくださった。そして私は、前段の意思決定と、それを申し訳ないとりんさんにお詫びした。
りんさんは自分の学校でもないのに「真剣に向き合ってくれてありがとう。咲ちゃんの人生の方が大事だから、自分の信じるものを優先してくれて構わない。でも、いい学校に私もなって欲しいから、もし可能ならば、遠慮せずプロセスの中で感じたことを率直に寺田さんに伝えて欲しい」と言われた。今思えば、この言葉がなければ私がこの学校に関わることも、寺田さんが理事長になることもきっとなかっただろうと思う。
私は、その日寺田さんに、理事長にはなれないことを伝えた。そして「きっと選択肢は二つしかない。あなたが理事長になるか、このプロジェクトを白紙に戻すか」ということを、重ねて迫ったのだった。私自身にとって、本来言わなくてもいい、でも自分の人生を傾けて考えた結論としての、私の人生を込めた言葉だった。
日が暮れかけた新宿のホテルのラウンジ。その言葉に、寺田さんも、言い放った私も数分の間沈黙した。あんなに長く感じる沈黙を私は人生で、体験したことはなかった。理事長をやることを勧められ、いやいやいやーというくだりを何百回もしてきただろう寺田さんは、真正面からその言葉を受け止めてくれていた。
黙り込み、ため息をついて、その通りかもしれないなと呟いた。自分がコミットしないことを誰かに求めてきたのかもしれない、自分はずることをしていたのかもしれない、と。「ちゃんと考えさせて欲しい。問いかけてくれた返事を必ずすぐする。」と言われて、その日は別れた。もう誰が誘ったのか、誰が誰をクロージングしているのかわからなかった。けれど、そこには人生を賭けるレベルで真剣にこのプロジェクトに向き合う、2人の人間がいることは確かだった。
多くの人が関わりながらも、主要な誰かの深いコミットメントが足りない空洞をこのプロジェクトに感じていた私に、ここから物事が動き出すという感覚がただ残った。そして、彼が理事長として人生を傾けるなら、私も彼とこのプロジェクトに賭けようとその場でこっそりと腹を決めた。
数日内に、「取締役会を通した。つきましては一緒にやってください」と言われ、私はその場で快諾した。まだ銀杏並木が見える、青山一丁目で握手をした。奇跡が起こるなら、自分の大切な人生の時間を賭ける甲斐がある、それが私の覚悟の理由だった。
高専というシステムを活かして新しい学校を作るという建てつけ、メンバーと情熱。この学校の未来は確信できた。あとはこの学校をどう知ってもらうのか。当時はそれこそほとんど誰も知らない学校だったけれど、私の中には一つのイメージがあった。何かを始める時に大抵ぽっかりそこにある、直感というか、衝動というかビジョンみたいなもの、が。これは社会と、共に学校を作るプロジェクトになる、と。
振り返ってみて、学校というもののパワーを痛感する。そもそも学校というのは、誰しもが行っていて、その意味や必要性・課題を、自分ごとで語ることができる。学校を作るのが夢の一つ、とだいたいの人類は思っているような気さえした。
少子化のなか新しく学校ができた、はほとんど聞かない。学校を作っている、というプロセスに至ってはほとんど誰も見たことも触れたことのない。大きな絶望と希望・興味と諦めが混在してて、誰も触れることができなかった学校というものに、「皆で触れ・皆で作る」ならば、その輪はきっと大きくなる。時間はないけれど、このアジェンダなら社会の渦が作れると思えた。
未来が決まれば、そこからは本当に怒涛だった。もう過ぎた日々ながらそこからの1年半は、一言で言うと、こんなに辛かった日々は無い、と振り返る。孤独で、自分を疑い続けた1年半だったと言える。私たちの前に1人で意思を固めた校長大蔵 峰樹、寺田、山川の3人で、できることは本当になんでもやってきた、と思う。
大蔵さんが申請周り一式(10人がかり級を一旦1人からスタート、最終3名でやり切る)、寺田さんが21億円の資金集め一式(本当に最後の1年弱以外、1人でやり切った)私が社会とのコミュニケーション一式(私には相棒がいたけれど)。そして、3人でまだ影も形もない学校に、20名の教員を集めをあの手この手でした。毎日毎朝、爆速会議なるMTGをして、寝ても覚めてもこの学校のことを考える日々が始まった。
1年半を経て今は、本当にいいチームになったな、と思う。
土壌がある。「いいものがいいでしょ」と理想に向かうこと、不可能に挑戦すること、奇跡を起こすこと、それぞれを信じること、多様であること…それらが明確に許可されて支持されている。カルチャーがないと悩んでいた日々が嘘みたいだ。でも、あの始まりの時はもちろん何もなかった。手探りで、不確かで、CRAZYのトップをやっていたらこんな苦労はしなかったという、苦労しかなかった。
カルチャーサイドにいた私が、ゴリゴリのビジネスマン2人と毎日毎朝MTGをして、リアクションの薄い場に凍りつき、これじゃ生まれるものも生まれない、と何度も涙した。チームを作って、人が生むうねりの中でいろんな奇跡を創造してきた私は、その世界観の違いに唖然としたものだ。
それでも奇跡を目指していたら、そんなことでへこたれていられない。普通の学校になる恐怖と闘いながら、自分のルールも持ち込んで、チームを作ろうと努力した。時に手紙を3人で書いて読みあったし笑、毎月の合宿をマストにして、部屋は絶対みんな一緒の大部屋にして寝食を共にした。zoomの笑顔をお願いして(特訓して)、淡々と進むものごとにチーム感とか喜怒哀楽を付与した。
論理だけじゃたどり着けない未来に、賭けてしまった私は自分では学校は作れないくせに、学校ができる、を有に超えた世界を目指してた。「チームと社会のモメンタムを作る」そんな気持ちで、月一の円卓会議イベント、起業家講師プロジェクト、ツイッター、instagram、note、メルマガ、神山町新聞、HP、クラファン…と、社会と学校作りの接点を、次々と立ち上げた。
クラウドファンディングは、学校の大きな分岐点であり、忘れもしない人生で一番不安なチャレンジだった。言い出したものの、確信と不安が入り混じるのが、新しい何かを生み出す、というのが私のスタイルで。やってもやってもまだ足りないと、自分自身を脅しながら準備をした。なんで始めてしまったのだろうと、何度も後悔して。
当日を迎える直前まで、家族恒例の星のや軽井沢に行っていたが、ほとんど家族と一緒に行動もできなかった。サイトのページの文章を数日前に、全て自分で書き直し、こうじゃなきゃダメだとデザイナーと夜鍋をした。私も未熟で、申し訳ないことをしたと今でも思う。でも、そのくらい神経をそばだてて、この未踏の挑戦に不安のなかで向かっていたのだった。
「先輩不在の新設校の1000人の先輩に3万円を出してなってもらう」という無謀とも思われた企画は、自分たちの手を離れて数百のシェアをされ、1000人の先輩枠が3日を待たず売り切れた。学校プロジェクトが社会ごとになってきていると感じた瞬間だった。応援してくれる方々はもちろん、起業家講師という名前で、東京でも会えない起業家たちに先生として神山にきてもらう仕組みや、寄付企業をパートナーと呼美、寄付だけじゃなく一緒に授業やイベント、取り組みを作った。ビジネスの世界にも学校作りの輪は、広がっていった。
なんとなく周りを見ているこの時代に、半年に一度プロセスを伝えるドキュメンタリーを公開しながら、この学校を見て応援している皆さんが、物理というよりも精神的に増えていくようなイメージで学校の情報発信をした。気持ち的にはこの世の中と一緒に、この未来の学校を作ってるつもりだった。
年明けには寄付企業やクラファンの先輩の皆様と一緒に、学生向けた初の大型イベント「未来の学校FES」も開催。多くの人たちの大小の応援をいただきながら、高専の光も、社会の渦も、一層大きく強くなっていった。その中で私は1人影を、いや闇とも言えるものを強くしていたように思う。
常に私がやりたいと思うことも、やった方がいいと思うことも、申請には必要ないことで、やらなくてもいいことで、逆に申請や誰かを逼迫してしまうものだった。誰にも求められていないことを、私すら自信もないなかで、やると断言して遂行することの難しさ。孤独さ。恐怖。申し訳なさ。そんなものと、戦い続けた1年半でもあった。
そんな話を最近、信頼するクリエイティブのプロフェッショナルにぽろりと話したら、それは正しいよ、と言われた。クリエイティブはそういうものだ。誰にも理解されるものなら、意味がない。と、さっぱり答えられて、そうだなぁと深く頷いた。
それでも、当時は自分が挑戦すればするほど、周囲の反応が怖くなった。過敏になった。私さえいなければ、余計な時間も使わず、学校ができるかもしれない。私が、自分のわがままで開校の邪魔をしているかもしれない、と自分を疑うことが増えた。掲げた未来への確信も揺らぎ、「理想の学校ができなかったらどうしよう」と、自分が社会に壮大な嘘をついているのではないかと思うこともあった。
次第に、定例MTGの場のいつもの無反応や、ちょっとした言葉すら怖くなった。MTG前は鏡を見て、「大丈夫、不要ならクビになるはず。必要だから今ここにいる。ダメと言われるまではやり切ろう」、と自分に言い聞かせて、どうにか毎回のMTGに参加し、終わった後、嗚咽することも幾度もあった。
1度だけ本当に辞めようか悩んだこともあった。
自分がやってきたこと全てを自分で否定して、こんなに辛い思いをして、こんなに傷ついてまで、やる意味あるのかなと考えた。いつものように考えに考えて、最後にシャワーを浴びながら、「辞めてもいいよ」と自分に言った。「辞めてもいい。それでも学校はきっと問題なくできる。それでも、ここでやるの?」と。それでもやりたいのか、その問いに私は結局YESと答えたのだった。苦しかったけど、この開校をやっぱり一緒に見たい、その思いがただそこに残った。
きっとこのプロジェクトをやっていなければ、一生ぶち当たらなかったかもしれない壁がいくつもあった。完璧主義だけど、完成度を求めるのは、辞めた。「とりあえず」という嫌いだった言葉を使うようになった。そのほうが結果的により早く、クオリティに近づけることを知った。
その場の空気感を重んじて、物事を止めることも手放した。場も大事だけど、その先の譲れない未来のために場は次期に良くなっていくものだと今は信じられる。自分と違う人間に対する感謝が湧いた。自分と違うから、総和の中で自分が自分でいられる・1人では決して手に入らない未来が手に入る。総じて私は、いろんなものに揉まれて、成長したと思う。捨て身で、裸でぶつかって、前よりも少しいい自分になったと思う
学校作りの光と影を詰め込んだ1年半。
学校作りの難しさを知って尚更、もちろんできて欲しいし、そうを願って作ってきたけれど、「こんなに素晴らしい学校が、生きているうちにできることはもうないかもしれない」とも思う。それくらい、不可能を可能にする起業家たちが束になっても、ギリギリもギリギリの戦いだった。
苦労と努力の甲斐あって、この学校が社会で知られ、期待をしてもらい、「何か起こしてくれる」という対象に、神山まるごと高専は、この一年半でなれてきたと思う。多分、この学校作りのプロジェクトは、リリースだけ見たら、マイルストーンを順調にクリアし、予定通りに進む学校作りに見えたかもしれないし、そうも努力してきた。
それが学校作りの光の部分。そして、同時にそこにある影は、私が今夜ここに書いてきたような、それぞれの表に出ないそれぞれの人たちの努力・絶望・孤独、であったと思う。全ての学校を作ってきた「私たち」がそれぞれの影を超えて、この開校決定があったと思う。
9月の終わりの夜に噛み締めたいのも、クリエイティブディレクターとして開校決定の報告イベントで表現したかったことも、光よりもこの影だった。結婚式と一緒で、ダメなところも弱いところも葛藤もあるから人間は美しいと確信しているように、このプロジェクトの開校決定の裏の、このプロセスにあった影の部分にこそ、この学校のアイデンティティが詰まっていると思う。
私たちは一貫して、挑戦者であった。失敗を恐れるよりも、未来を謳い、自分の挑戦を差し出して、現実を手繰り寄せてきた。
でも、プロセスは、各自がその分野で必死の、地べたでの戦いであった。開校決定は、目指してきた当たり前の道標であり、想像を絶するプロセスの先にたどり着いた、1年半前から見ても奇跡ともいえる未来だった。
そのことを立ち止まって皆で味わい、これを社会に表現して伝えたい。それが叶った、9月の認可報告会であった。開校までに、ここまで多くの人たちが関わってきた学校はない、そう断言できるくらい多くの人と共に歩んできた1年半。光とか希望とも言える協力者の皆さんに、そのプロセスにあった影を共有して、一緒に作ってきたことを泣いて喜びたい。だから人一倍、大きな思い入れがあったのだった
イベントでは、全てのプロセスを朗読と映像、人々の生の声で振り返り、寺田さんが生の感情をむき出しで伝えた。その涙に会場の皆が涙した。私がずっと、社会や周囲に作り出したかった応援したいという気持ちや、一緒に作っている感覚が最も形になった夜でもあった。
イベントの終わりに、4人でステージに立った時に、「この仲間に感謝をしたい」という声に、私もそうだなと思えた。最初に、奇跡が起こる、と思わせてくれた2人の存在。大蔵さんのひたむきなひたむきな努力。理想も全て受け止めて、着実に現実を作る力。皆のリーダーであり続けた、寺田さんの折れない情熱。芯の部分で誰よりも信じてくれたこと。
そして、その後にジョインしてくれた伊藤さんがいたから、本当に頑張れた。どうしても心が折れそうな時は、伊藤さんに電話した。クリエイティブを理解してくれる友でもあった。「すごくいい!」、そんな伊藤さん節に支えられて今日まで、あれこれを作り出して来れた。一人一人に感謝すれば、このメンバー以外にどこまでもキリがない。
私は、これからも変わらず、クリエイティブディレクターとして、そして理事として長くこの学校と関わっていく。でも、創業をする覚悟で重要なバトンを受け取った私にとって、この開校決定をパートナーの皆さんに、ライフワークであるイベントという場を通じて、発表したこの9月は間違いなく大きな一つの節目だった。
「それでもやるのか」。その問いにちょうど1年前、たった1人で、YESと答えた過去の自分を褒めたい。ぶつかった仲間たちを今では、心の底から尊敬している。このチームが本当に好きだと思う。本当にここまで走って来れて良かったと思う。こういう未来にたどり着ける人生でよかったな、と思う。
参戦から1年半、このチームも社会も、私の仕事も大きく変わった。それでも変わらず、誰も必要としていない、けれどこの学校や仲間/学生の人生に必要な何かを、創造し続けることを私の役割として、精進し続けようと思う。そして自分自身が、挑戦と成長のある人生を選び続けようと思う。
入学者40名を超えて、すべての15歳の選択肢を広げる、という私自身の、1年半前から変わらぬミッションのために。CRAZYを立ち上げた時からの、「意思のある人生をこの世界に、一つでも多く増やす」という、私の生きる意味のために。私は今日も、CRAZY CASEを世の中に作り、それで世界を変えていく。