東アジア反日武装戦線について(5)
このまえnoteに『東アジア反日武装戦線について(4)』という題の記事をかいた。 その題にいうところの都市ゲリラ部隊が爆弾テロでわが朝をゆるがしていたころには、わが朝にも非暴力主義をこころざすひとたちがすでにいたという意味のこともその記事にかいた。 ところがその部分をかいた直後、まさにそれを証明する内容の〝古文書〟をネット上にぐうぜんみつけた。 この〝古文書〟記事の表題は『<東アジア反日武装戦線>と<非暴力直接行動>の立場』とされ、筆者名は「笠田七尾」とあり、1976年1月22日(木曜日)の日づけが末尾にかきこまれている。 PDF形式のページで、URLとリンクはつぎ。
===> http://www.kamamat.org/a-ken/book/zatusi/zatu-pdf/ana-10/ana-10010.pdf
この筆者名をおれはこれではじめてしるとおもう。 四国の地名をシャレでぱくった偽名のようにもおもえるが、もしもそうならこの〝古文書〟記事のかきぬしの〝正体〟はだれだろうか。 あるいはやはり無名の活動家だろうか。
ともあれ内容にもきわめてすぐれたとおれにはおもえる点がいくつもあるし、この時期にすでにこんな論争がなりたつほどだったのかとの意外すぎる感慨もふくめ、いささか感おおくしておもいあまるあいだ、はしなくもついテキスト文書化しちまったので(笑)、このさいいっそテキストで全文を以下に〝無断で〟転載させてもらうことにした。 この記事には表図版が1コあるので、スクリーンショットにとったのを整形した画像でいちおうつけてみた。 「◆ ◆ ◆」のしるしでくぎっておれ自身のかく文章と区わけする。
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<東アジア反日武装戦線>と<非暴力直接行動>の立場
笠田七尾
(一)
<しらけ>という言葉に象徴されるように、時代閉塞の状況が僕等を取りまいていた。そんな七四年八月三〇日の昼下がり、正に、この状況を切り開くかのように、ひとつの爆弾が日本経済の中枢といわれる東京・丸の内の三菱重工ビル玄関前で炸裂し、死者八名、負傷者三八〇数名の犠牲者を出した。その犠牲者の多さもさることながら、三菱軍需廠と呼ばれた企業への決然たる直接的攻撃は、時代閉塞を味わっていた僕等に少なからざる衝撃を与えた。彼等は更に、三井物産、大成建設、間組と「植民地主義侵略企業」への爆弾攻撃を続行することによって、武装闘争の不退転の橋頭堡を築き上げた。「新左翼のこれまでのワクをはねのけた全くあたらしいテロリスト集団」とマス・コミが評したとおり、攻撃目標の設定、爆破技術、武装組織の分野において、彼等は武装闘争に新たな<都市ゲリラ>の質を提示したのである。彼等の否定的側面ばかりでなく、かかる事実を僕等は先ず正当に評価しなければならない。結果的に彼等<東アジア反日武装戦線>(以下<反日武装戦線>と略す。)は、七五年五月一九日、韓産研爆破の容疑で逮捕されたわけであるが、しかし、<反日武装戦線>の拓いた闘争が、それと同時に終焉したというわけではない。勾留理由開示公判で大道寺将司氏は、行動する者にのみ許されるニヒルに裏付けられたオプティミズムに支えられながら、「第二、第三の私たち」が必ず現われるであろうことを明言した。その予告は周知の如く、爆弾闘争そのものの継続によって、<反日武装戦線>の志は新たな武装ゲリラへと受け継がれたのである。そしてそれが、一一月二一日の大阪・中之島にある三井物産ビル爆破によって、再び三菱重工ビル爆破の状況を再現したことは耳目に新しいところである。しかも、引き継がれた爆破の多くが、<反日武装戦線>を名乗るグループによって行われている、ということは注目に価する。
(二)
さて、<反日武装戦線>を従来の武装闘争から区別するひとつに彼等の市民としての模範的日常がある。これは、<反日武装戦線>の<都市ゲリラ>としての存在態様を示す重要な点であると僕は考えるのであるが、マス・コミは、これを一貫してスキャンダラスにとりあげた。しかも最も集中的にである。<反日武装戦線>と<模範的市民>の接点を捜しあぐねたマス・コミは、「やはり、悪いヤツは悪いヤツらしい顔、悪人面をしていてもらわないと、変に落ちつかない」というのである。「異常なテロをやるヤツは、それなりの異様な顔つきをしていてこそ、一般人の〝期待〟に沿ってくれる」(「週刊新潮」七五年五月二九日号)、そうでなければ人間不信に陥るというわけである。その視点は、<模範的市民>が「腹腹時計」を教条的に守ったカムフラージュにすぎないという結論を導き出し、<反日武装戦線>を自分達とは別種の人間であるとすることによって、唯々自己防衛に努めようとする。そして引いては、企業爆破そのものの本質的意味を覆い隠す役割を果たしているのである。そこには、外形上の観念でさえ破壊しようとする者を、すべて抹殺しかねない自己中心的な論理があるだけである。
<反日武装戦線>は凶悪な犯罪者であるが故に「異様な顔つき」でなければならない、それ故、<反日武装戦線>の<模範的市民>も偽装である、とする論理の駄目さ加減は誰にでも判る。ところが<反日武装戦線>に対するこのような陥穽は、外形上の問題にのみ留まっておらず、しかも反権力の側において、もっと複雑な形で無意識のうちに繰り返されているように思われる。
(三)
例えば、ここに「『狼』の立場と僕たちの立場」(「アナキズム」9号)と題した河辺岸三氏の<反日武装戦線>についての論考がある。論点を犠牲者の問題という一点にしぼった、もっともな内容に見えるが、しかし実は、その論考を貫くものは、先に述べた<模範的市民>に関するものと殆ど同質なのである。
河辺氏の<反日武装戦線>批判は、<反日武装戦線>が爆弾闘争にあたって、一般市民の巻き添えを出さない、という「そうした配慮が政治戦術を越える生き方の問題としてどれだけ真剣に考えられたか」という点に集中される。氏は、「彼らは出来る限り犠牲を出さないよう注意を払ったという。つまり、『殺さない』というモラルによって行動したと聞いている。それは事実だろうと僕も信じている」と<反日武装戦線>に一応の理解を示しながらも、「まきぞえとなった犠牲に対して犯罪企業の寄生虫というふうな評価の仕方、言ってみれば、ひねりつぶされて当然というに等しい評価」のある事実を指摘して、結局、<反日武装戦線>には「『殺さない』という規範が生き方の問題として、つまり価値の問題として考えられていなかった」とする。つまり、「『狼』の『殺さない』立場は殺す権利の留保という考え方とバランスしており、犠牲者が発生した場合にそれを合理化するため枠組みはあらかじめ出来上っていたように」「見える」というのである。
河辺氏の論拠は、「爆弾で爆死したり負傷した者は『同じ労働者』でも『無関係の一般市民』でもない。植民地人民の血で肥え太る植民者である」と決め付けた「〝狼〟通信第一号」という三菱重工ビル爆破後に発表された<声明文>にあると考えられるが、しかし、果たして氏のように言い切れるかどうか大いに問題がある。
ここで、<反日武装戦線>が犠牲者の問題に如何に対拠したかを、僕は行動に現われた面から垣間見たいと思う。
武装ゲリラ戦を繰り返しながら、それでもなお、<反日武装戦線>が「無用な巻き添えなどの犠牲を出さないように作戦上配慮」していたかは、左に掲げた一覧表を見ていただければ了解できるだろう。
なお、韓産研爆破については彼等の仕業であるかどうか問題の多いところであるが、一応加えておいた。
即ち、三菱重工ビル爆破後の内部対立を通して、<反日武装戦線>が<声明文>の内容とは裏腹に、犠牲者の出ることを方法的に避けようとした意図を読みとることができる。つまり、三菱重工ビル爆破以降、(1)爆弾が小型化していること、(2)爆破時刻を午前〇時から三時頃の、人々が寝静まった深夜にその多くを変更していること、(3)それ以外の時間帯における爆破は<予告電話>を掛けていること、という三つの具体的方法によってである。例外はただひとつ、間組本社ビル爆破であるが、それでも同時に爆破した一方の大宮工場へは、やはり予告電話をしている。この<予告電話>というものが、従来の爆弾闘争では<新宿クリスマスツリー爆弾>を除いて無かった、という事実を<反日武装戦線>を考えるにあたって思い起こさねばならない。行動に現われたこれらの事実は、<声明文>以上に犠牲者に対する<反日武装戦線>の態度を語って余りあるだろう。以上の事実を念頭に置いて<声明文>を見るならば、河辺氏の解釈は少々酷な感がするし、氏のように<反日武装戦線>を裁断し切る自信を僕は殆ど持ち合わせない。あの<声明文>は、更に武装ゲリラ戦を続行するうえで彼等自身の結束を保つための必要性からであり、本心からそう考えていたかどうか大いに疑わしい。この自己の必要性のためという立場は、河辺氏の非難して止まない政治的・戦略的立場であるかも知れないが、だからと言って<没モラル>であるとは言えない。文章を書いたことのある人には必ず経験あるだろうが、あのイキガリも大いにあっただろう。もっとも、必ずしも本心からではない<声明文>を発表することによって、その見返りとして犠牲者を何とも思わなくなる心理的作用はあったであろうから、あの<声明文>は<反日武装戦線>にとって危険な前兆であったとは思う。しかし、<声明文>発表後の行動を検討する限り、「反日武装戦線」は、氏や僕等と同じく多数の犠牲者が出てしまった事に心を痛め、そして、如何にして一般市民を巻き添えにせず武装ゲリラ戦を続行するか、という方法を模索しているのである。
武装闘争は原理的に権力主義に拠っているが、個人が何時でも組織から身を引ける手立てを作っておいたり、また、その武装組織が「一人一人の思想性」に依拠した組織であったように、<反日武装戦線>は自己の内部に意識的にか無意識的にか権力化への歯止めを作り出している。勿論、権力化への歯止めを持っていたからといって犠牲者の問題を歪小化しようとするのではないが、結局、河辺氏は、<反日武装戦線>の苦悩の事実を無視することによって、彼等を貶めているのである。
何故<反日武装戦線>が「『殺さない』という規範を生き方の問題として考えていなかった」と決めつけてしまうのか。河辺氏の、<声明文>だけを根拠に<反日武装戦線>の本心、本音までも割り切ってしまう論法は、「爆弾で爆死したり負傷した者は」「植民地人民の血で肥え太る植民者である」と一面的に決め付けてしまった<声明文>のやり方と同じではないか。河辺氏の論理は、氏の拠って立つ<非暴力直接行動>から、更に<反日武装戦線>を向こうへ向こうへと追い遣る作用しかおこさない。いわば、<非暴力直接行動>の排他性を僕は感じる。勿論それが、河辺氏の意図したものだなどとは思ってもいない。しかし同じく反権力の側に立つ者として、<反日武装戦線>の心の動揺に思いを巡らしてやるならば、河辺氏の批判は一般的な武装闘争の論理に合致する事実箇所だけを抜き出し、理解不能な事実を切り捨てるという方法で論じた恣意的な内容であることが理解できるだろう。それは何故か、つまり、氏には次のような前提が最初からあったのである。「自らの意志によらない人間の死を、あるいはもっと一般的に、自らの意志とは無関係に課される他者の苦しみを、人はどのようにして正当化することができるだろうか。こういう問いかけに対して僕たちに与えられる回答は、昔から今まで少しも変わっていない。革命は必然的に犠牲を伴うものであり、犠牲は革命によって築き上げられる自由と平等の社会の礎石となって結実するのだ、と。こういう革命の戦略論の底には、また、犠牲こそ革命を浄化するものであるという信条が横たわっている」という大前提である。氏は、この典型が武装闘争であると暗に言い、その裏には更に、「僕たち」は違うんだという視点を持っている。<非暴力直接行動>は「殺さない」という規範を生き方の問題として考えているが<反日武装戦線>は考えていない、と結論付けるための伏線があらかじめ準備されていたというわけである。
以上から分かるように、河辺氏の<反日武装戦線>批判は、武装闘争に関する一般論の鋳型に<反日武装戦線>を流し込んだにすぎず、その内容は、武装闘争は駄目なんだと言っているだけのことであり、そこから読み取るべきものは何もない。
また江口幹氏は「アナキズムとテロリズム」(「アナキズム」8号)でテロリズムが現代革命に既に意味を持たない根拠として、「大衆が自治的に行動する」「可能性が見えてきた」こと、「たとえば、市民運動なり労働運動なりが、単なる日常的な利益擁護の要求貫徹のためだけではなく自分たちで地域なり企業を、ひいては社会を管理してゆく、そういう可能性、少なくとも、そういう方向に運動を推進する可能性」ができた、ということを掲げているが、それは江口氏の希望的観測というものであって、それほど楽観できるものかどうか。氏が市民運動、労働運動に期待していなかったということを知らねばならない。そのことを一人一人が確認したからこそ<反日武装戦線>は<武装ゲリラ戦>を選択したのである。
(四)
以上、大雑把に<反日武装戦線批判>を批判して来たが、両氏に共通して言えることは、結果的に<反日武装戦線>を向こうへ向こうへと追い遣ってしまっているということである。<批判>というものは、そうあってはいけない。<非暴力直接行動>の僕等の立場から<反日武装戦線>に対して為すべきことは、救援活動もさることながら、武装ゲリラとして閉ざされた、あるいは閉ざされかかった視野を<批判>を通して切り開く手助けをすることであろう。そのひとつが、河辺氏の論点である<犠牲者の問題>であることは間違いない。そして、その点を批判する場合、<反日武装戦線>も犠牲者の問題に苦しんでいる、ということを正確に押えておくことが先ず必要である。この問題を共通の基礎とした相互批判、自己批判を通して、<反日武装戦線>と<非暴力直接行動>の両者が新たな闘争を展開できる可能性があるということである。それは、彼等を否定し切ってしまうことによっては決して為し得ないことである。ところが残念ながら、河辺氏の批判は、<反日武装戦線>が犠牲者のことなど考えていない、と決め付けることによって<非暴力直接行動>との関係性を断ち切り、結果的に彼等を封じ込めてしまっているのである。しかし実は、そのことによって逆に氏自身の視野も閉ざされていっている、ということを知らねばならない。いままでになされた<反日武装戦線>に対する<批判>の多くが、このパターンであったということは残念である。
繰り返して言おう。<反日武装戦線>も犠牲者の出ること、出たことを是として爆弾闘争をやったのではない。それ以上に<植民地主義侵略企業>というものを許せなかったのである。そこで、問題はこうあらねばならない。<犠牲者を出さずに如何にして反日武装戦線の戦闘性を維持した闘争を遂行できるか>ということである。もし、このような闘争を僕等が提示できるならば、<反日武装戦線>も武装に拠る必要はなかろう。その闘争への可能性を僕等は<非暴力直接行動>に求めているわけであるが、しかし、<非暴力直接行動>が体制を揺がし得るという実力を社会的に可視化することもできず、現時点での<非暴力直接行動>の無力さを棚上げして押し並べて<反日武装戦線>を批判するだけに終わるならば、体制の反暴力キャンペーンを左から補完する役割の担い手へと転落することを自覚しなければならない。
<反日武装戦線>が、「われわれは新たなゲリラ兵士を迎え入れることができる。その可能性は、われわれの武装闘争によって生まれる」といみじくも語ったように、彼等の苦悩を救い上げ、その視野を切り開き、犠牲者を出さずに革命を遂行できるという示唆を与えることができるのは<非暴力直接行動>そのものの社会的実体化によってである、ということを僕は肝に銘じておきたいと思う。(一九七六・一・二二)
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以上が笠田七尾『<東アジア反日武装戦線>と<非暴力直接行動>の立場』の全文だ。
さっき上で「きわめてすぐれたとおれにはおもえる点がいくつもある」とかいたが、この〝古文書〟記事にはその反対の、ひょっとすると「時代的な制約からくる限界」ってやつなのかもしれぬとおもえる点もがいくつもみとめれる。 しかしそれらの具体的な個々の指摘はこのさいべつのこととする。
ともあれこの〝古文書〟にでくわしたのがきっかけで、ねんのためにとおもってネット内をちょびっとだがさがしてみたところ、「おお!」とおもえる〝古文書〟がもう1コあった。 すなわち非暴力をこころざしながらも東アジア反日武装戦線を拒絶はしない全否定はしないとする意見・たちばをあらわしたものだ。 これの筆者はさきの笠田七尾とちがい、そのみちでは超のつく有名人の「水田ふう【みずた・ふう】」、その記事の表題は『私の非暴力』、やはりPDF形式のページで、URLとリンクはつぎ。
===> http://www.kamamat.org/a-ken/paper/p-pdf/chokusetu/choku-1001.pdf
これもついテキスト文書化したので、やはりテキストで以下に全文を〝無断で〟転載させてもらうことにした。
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私の非暴力
水田ふう
権力に対して闘う〝暴力〟が、いまなお人々に受けていられるのは、それが暴力以前の〝生命力〟に直結しているからである。
それにくらべ〝非暴力〟は、その基盤である直接行動と切り離され、闘わないことのもっともらしい、いいわけに使われている。
いまの一見非暴力にみえる市民運動は、しかし非暴力主義とも暴力主義ともつかず、その態度はすこぶるあいまいである。つまり、その時の状況しだいで心情的に暴力を支持し、ふだんはなんとなく非暴力を支持している。
また管理体制がより巧妙に高度化した、いまの日本のような権力体制下では、意識的な非暴力主義者でさえ、無自覚のまゝ、その疑似非暴力体制にとりこまれてしまう危険性を常にもっている。
非暴力は、非暴力直接行動の意味と内容をはっきりと自覚し、内と外との権力にむかって対決する積極的行為とならないかぎり、それは、たゞの非暴力、無抵抗でしかない。
それは、権力にとって、ふりむいて追い払うハエほどの意味さえも持たない。
一九七五年二月・WRIと関係のある核反対ヨット・〝フリー号〟が日本にやってきた。彼らは日曜日の新宿でつなひきをして、人々に語りかけた。「ホピの書」という演劇に出演してカードを配った。知りあった一人一人に、実にていねいにビラをわたした。そして広場では八月六日を中心に多くの仲間と舞台をつくり、テントをはり、イベント〝ヒロシマ・プラスワン〟をやった。
これらのひとつひとつの行為の全てが、平和の種をまくことだと彼らは言った。
しかし、この『平和』な日本の状況で、彼らの行動はむしろ余裕のある人たちの遊びごととしてかたづけられかねないし、他の同じようなものと区別はつかない。
FRI号は、原水禁の大会が終ったあと、次の目的地であるソ連ナホトカへ向った。
ところがソ連では、その遊びのような行動さえ禁止される。FRIの人たちはどうしたか。彼らは監視のすきまをぬって、ソ連の市民に出会い、町に出かけて秘密りにビラをわたした。買物にいったマーケットのあき地ですばやく展示物をひろげ、メッセージをあつめる露店を開いた。
このことの例は、権力に向って対決する積極的行為であるとき、非暴力行動は、鮮明にその意味をあきらかにすることを示している。
だから、できやすい状況で、できやすいことだけをやっている、いまの日本の非暴力が、権力から対決をせまられた時、果して持ちこたえうるものであるかどうか、私たちの力は、まだほとんど証明されていないというべきである。
あるいは、闘いの中で死ぬほどの覚悟さえ持たない暴力は、権力に対して、せいぜいひっかき傷ぐらいのものしか与えることが出来ない、迫力を欠いた行動━と言われてもしかたがないだろう。まずそのこと━日本における非暴力の状況と位置━をいまはっきり認識する必要がある。
━━と、こんなふうに書いてくると、まるで私はいっぱしの活動家だ。しかし、私のほんとうの問題は、これほどに歯ぎれがよくはないということにある。正直な話、私など死ぬ覚悟などない。それどころかちょっとおどかされただけでもピリピリしてしまう。機動隊になぐられて、なぐり返さないのは、私が日ごろ非暴力主義をうんぬんしているからではなく、相手のあまりの狂暴さの前に手も足も出ないだけの話だ。
だから私の問題は、とても死ぬ覚悟なんか出来ない弱い、ふつうの人間にとって<非暴力直接行動>とはなにかということなのである。
しかし、いままで私はこのことの問題を、それほど十分にはつきつめてはいなかった。
キッカケは、「東アジア反日武装戦線」による三菱、その他の企業に対しての爆破事件だった。
このグループの一人、自殺した斎藤和さんが、私の知り合いの知り合いだった。
私が加わっている安保拒否百人委員会が、ちょうどそのころバザーを計画していたので、「東アジア反日武装戦線」救援の店をバザーに出すことを私は提案した。
これがことのはじまりだった。百人委内部では、この東アジア反日武装戦線の名を出す出さないでもめにもめた。バザー開催日までにみんなの一致点をみつけることができず、結局会場に借りているお寺の方の意向もあって、問題はもちこすということで、名前は出さないで、品物だけ出すことになった。
この問題をとおして、私に判ってきたことというのは━(百人委では暴力━非暴力という形で争点が表われてきたが)私が今までの主義としてかかげてきた〝非暴力〟と東アジア反日武装戦線がかかげている〝武闘〟とがくい違うということよりも、私にとってその最大の違いは〝闘い〟の意志と行動が明確なかたちで彼らにあって私にはそれがキハクであるという点なのだ。
私は、一体どのように、闘いについて積極的姿勢を持っているのか。
考えてみると、私はいままでその時々の状況やスケジュールのままに、仲間とデモをやったり、基地にすわりこみをやっただけだ。実際のところ、それは私自らがつくりだした積極的な姿勢の上からとは言いがたい。また私は、つねづね非暴力をカカゲてきたが、その内実はことさら非暴力をカカゲてもカカゲなくても、さして他の運動と変ったものではなかった。
だから捕ってもせいぜい軽犯罪法か道路交通法違反、公務執行妨害ぐらいで、まあ半年も入ることはない、という程度の非暴力で、その限りでは安心してやれるというものだった。
しかし、バクダンとなるとそうはいかない。すくなくて五年、十年。わるくすると死刑・・・。そして権力からの弾圧はもちろんだが、世間の人々も無関係な市民を殺したといっせいに非難するだろう。私だって、はじめはそう思っていたのである。
ところが、いまよく考えてみると、世の中に罪のない人間とか無関係な人間とかがいるものだろうか。私はたしかに日本に住んでいる。その日本というのは企業と結タクしてアジアを侵略し、そのギセイの上に成り立っている。私もそのおかげを受けている。アジアの人たちから見れば、日本人というのは殺してもあきたらないくらいに思っているかもしれない。東アジア反日武装戦線は自分達自身もふくめて、そういう日本に対して闘いをいどんでいるのである。
もちろん私は、「殺されても仕方がない」とおとなしくその死を受け入れるほど骨身にしみて罪を意識しているわけではない。やっぱり不当だと思う。しかし殺されるのはいやだという被害者としてだけの立場だけでなく私には否応なく加害者としての立場がのしかかっている。アジアの人たちにとって、区別なく日本人は侵略国民であり、私だけ別であることを免れることはできない。
自分を被害者の立場におくだけの視点では「東アジア反日武装戦線」とは、真向うから対立する。それは彼らと敵対し、権力やマスコミと同調する他ない途である。
だが問題は、それだけですむものだろうか。自分はいったいどこの立場に立っているのか。その焦点を一面から求めるのでなく、多面的に検証して明確にするのでないと、たとえば東アジア反日武装戦線に対してどのような態度をとるのかという時、自己立場の肯定としか出てこない。私はそのことの問題をはっきりさせる必要がある━そのことのつきつめをせまられている━と感じた。
「東アジア反日武装戦線」の人たちは、その名も示すとおり武闘主義をかかげている。明らかに私と立場が違う。しかし、あのバクダンは、あの時の段階では、まだ『状況に応じて自己規制のできるもので、その発動の限度、範囲が規定されていて』むしろ『反暴力』として受けとめることのできるものではないかと思う。(しかし武闘を積極的にかかげている以上、彼らはやはり組織暴力━権力へとエスカレートする他ないだろう。━━としてもなお)彼らが今やっつけようとしているのは日本国家━企業である。そして私が彼らと同じく反国家、反権力の立場に立つ以上、彼らを決して敵として市民社会から葬るようなことを黙視したり、自分とは無縁のこととすることがあってはならないと思うのだ。まして、自分自身の闘いの姿勢を問題にしないで、(殺されたくない、どんなとばっちりも受けたくないという本音は消えないにしても)非暴力主義の名をもって、彼らを非難、糾弾するやり方はやめたい━と思うのだ。
さて、積極的な闘う姿勢の<非暴力>とは何であるか━と問われたら、私はいま「それは<非暴力直接行動>だと思う」という以上の答をすることができない。
<非暴力直接行動>は権力に対する戦闘方法、戦略、戦術であるばかりでなく、むしろ大昔から共同して、くらしてきたそのくらし方の中にある眼に見えない力を、「力として取りだすこと」その意識化からはじまる。
それは━
『━直接行動というとき、私たちは<直ちに暴力に訴える肉体的行為>を思いうかべる。
それは<実力行使>とも<暴力の同義語>として一般にうけとめられている。
だが、直接行動は、本来、暴力と何ら関係はない。<直接>とは、<あいだに何もはさまずに接すること他のものを通さずじかなこと>である。
すなわち私にとって直接行動とは、<他のものを通さず、自分の手と自分の力によって、ひとつの目的、自分の必要を求める行動>である。
さらに言うならば、<私たちが日常生活において必要とするものを、間接的方法を排してもっとも直接的経路━つまり自己みずからの能力を発動して入手のために働きかけること>である。
問題をより単純に具体化すると、<私たちが日常生活において必要とするもの>というときの<もの>とは、まず<食物>に代表される<生活物資>であり、その<生産手段としての道具>であるだろう。<それを入手する>とは、この場合まぎれもなく<ものをつくること><生産>であり、その行動とは<労働>にあらわされる。
つまり、直接行動の本質は、まず第一に<生産労働>そのものである。そしてこの<生産労働>こそは人類の歴史を通じて、人民のみが背負い、果たしてきたところの人民のみがなしうる人民の最大の「力」である。暴力以外の、暴力ではなしえない━非暴力の<偉大な力>である。
このようにみるとき、直接行動とは、ものをつくること、生み出すこと、そのことのなかにもっとも明瞭にあらわれているすがたなのである。
直接行動としての生産労働は、まぎれもなく<非暴力社会>に基盤をおいて成立している。
<生産労働>は、私たちの日常生活の安定した持続と不可分の関係にある。
つまり、直接行動は、本来的に、<生産と労働>をおびやかすものが<暴力>であることによって、すぐれて<暴力>と対立すると共に、非暴力社会━人民自身の非暴力日常と分ちがたく結びついているのである。
<直接行動>は<非暴力>とわかちがたく結びついている━あるいは<非暴力>の<ちから>は<直接行動>によってあらわれる━ということは、二重の意味━<私たちの社会生活にとって、もっとも切実な>━<再生産>と<自治管理>との関連をあきらかにするものである。
私たちがそれと思いこんでいる<生産労働>は、実は<自己の労働力を商品として資本に売る>ことであるにすぎない。そのようにしてえた賃金を仲介にして非直接的にしか自己の必要なものを得ることができないことにおいて、私たちの生産労働は、あきらかに、<疑似化>している。
いいかえれば、直接行動が本来的に<生産労働>、<創造活動>であるということは、それは<非暴力>状況のもとにおいてのみそうであるということであり<疑似非暴力体制>の下では、それに照応して<疑似生産労働>しかありえない。
それと同じように、現体制のなかでのそれは━(一般に<非暴力直接行動>と呼ばれる<非暴力を意識した行動>もふくめて)━すべて疑似わい少化されて、<疑似直接行動>か、━(権力者流の暴力行動か)しかありえない、ということである。
このことは、目的意識をあきらかにするものとしてきわめて重要な意味をもっている。
このようにすべてを体制にからめとられた状況のもとで行われる私たちの闘いは、正確に言えば、<直接行動そのものとしてでなく>、まず<直接行動━すなわち非暴力直接行動━の回復、奪権の闘いである。>
それは、<自己を労働疎外から取りもどし><疑似生産労働を自己のためのものとするための闘いであり><生産労働としての闘いではありえない。>━』
━向井 考「現代暴力論ノート」━
このような視点にたつ時、非暴力直接行動の意味は、一応はっきりとしてくるだろう。
それにしても━現実の社会では━人々のくらしとその歴史は、非暴力直接行動によってのみ支えられていながら、実はそのことが全く意識されていない。そして歴史━権力者の━では、なるほど闘いの勝利を決定するのは常に「暴力」であったかもしれない。それゆえにまた、人民が一時期に勝利しても、それが暴力によるものである故に「暴力」(軍事組織)から生れた権力機構は、権力者の交替を意味する権力者の勝利になるだけで、つねに権力がなくなることはなかった。そのことはWRI宣言でいっているように━『暴力による闘いは、ついに人民に勝利をもたらさない、ということを歴史━人民の━として教えているのである。とすれば、それがどのように未確定の新しい困難な方法であるとしても、私たちの進むべきみちは<非暴力直接行動>以外にない』━ということだ。
このことの自覚をはっきりと自分のものとすること。これが「私の非暴力」の出発である。
人々が大昔から共同してくらしてきた、そのくらし方のなかにある、眼に見えない力を「力として取りだすこと」その意識化からはじまると前に書いたが、それは同時に自分自身の内にある力を自覚することでもある。
それでは、私自身が自覚していない私自身の力とは一体何か。━それを具体的にひとつひとつはっきりさせることで、私は権力と闘う勇気を持つことが出来るのではないか━と今思っている。そこから私の<直接行動>がはじまるだろう。そして、私がいまやっている試行サクゴ的でケイハクな助っ人稼業も、ひとり私だけの問題でなく、他にはたらきかける意味と力をもつことになるだろう。
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以上が水田ふう『私の非暴力』の全文だ。 これは『直接行動』というミニコミ誌に掲載されたものらしいことが上記URLのPDFファイルをみるとわかる。
文中の引用部分の末尾に、引用もとの本の筆者名として「向井 考」とあるのは、ミズタのつれあいの向井孝【むかい・こう/むかい・たかし】の「孝」の誤記だが原文のままとした。 このほか〝非正規〟のシナ文字表記もちらほら目にするが、それらもすべて原文のままをかきうつした。
前記のとおりミズタ₌フゥは〝有名人〟だが、この〝古文書〟記事をよむのはおれはこれがはじめてだ。 前出の笠田七尾の文章について、「ひょっとすると『時代的な制約からくる限界』ってやつなのかもしれぬとおもえる点」うんぬんとさきにかいたが、この2つの〝古文書〟記事の内容でおれが異和をかんじるもろもろのことがらのなかには、2つのどちらにも共通するものがふくまれている。 その意味もこめて、これら2文書の内容のどの点もがすべて賛同できることばかりだとまではおれにはけっして云えぬにせよ、非暴力とは相いれぬ武斗路線の赤色爆弾テロを非暴力主義者としてどうとらえるか、そのおそらくきわめてすぐれたよい手本・見本でもこれらがあることにはちがいないとみて、全文をここに転載させてもらった。
日帝利権企業をまとにした東アジア反日武装戦線の反帝の爆弾テロが、どのような政治的意識をもつひとたちの市民社会でおこなわれたか、その具体的一端を歴然としめすのが、これらの〝古文書〟記事がはらむ意義のおおきな1つと云える。 これらの〝古文書〟記事からよみとれる非暴力主義なり暴力嫌悪なりのありとあらゆる表徴なり状況が、当時のその市民社会にはたしかにあった。 そしてほかならぬその市民社会で、くだんの爆弾斗争はおこなわれた。 このことを念頭におくのは、この爆弾斗争を評価するに、ダメ評価をするにしろ、ホメ評価をするにしろ、ぬきにできぬことの1つであろう。
おれのこのnote記事の題は「東アジア反日武装戦線について」であり、つづきものの記事のかたちのようにもしてあるが、上記2コの〝古文書〟記事については、これとはべつのnote記事を、もしかしたらあらめてかくかもしれぬ、それはたとえば「非暴力主義について」といったべつの題の記事としてだ。 これらの〝古文書〟記事は、すくなくともいまのところ、それぐらいにはいろんなことをおれにかんがえさせるし、いまかいているこの記事ではそうした論評には何もふれていないからだ。
おしまいに。 転載した文書のテキスト化について、誤字・脱字をはじめ誤植がありましたら、どうせネットの名なしのやること、ひろいおこころでおおめにみてくださいますことおねがいもうしあげます。