いつまで寂しいつもりなんだろう?(仮)
さびしさは鳴る。
強い寂しさを感じたとき、もしくは誰かの寂しさに触れたとき、この一文を思い出す。『蹴りたい背中』の冒頭だった。
この書き出しが素晴らしいのだと中学の国語の先生が板書で強調し、授業で習うより前に作品を読了していた自分は、ウンウンと知った顔で共感したのを覚えている。
でも、その音色がわかるようになったのはずっと後だった。
そして、それはわたしにとっては、鈴のような切なくて綺麗な音ではなかった。
うまく言えないけれど、けたたましく鳴る警鐘のような、ハッと身の危険を感じてその場から逃げ出したくなるような、結構キツイ、キビシイ音、だと思う。
(雪のように音もなく積もり、ゆっくりと熱を奪っていくタイプの寂しさも、ある。)
寂しさは聞こえる。
自分の心を侵食する寂しさには、身動きができなくなる。
他人の寂しさに直面したときは息が詰まる。
いつからこの音が聞こえるようになったんだろう。
そしていつまで耐えなくてはならないんだろう。
✴︎
小学生までは喘息持ちで、よく夜間救急にお世話になった。
でも大人になってからは体力が取り柄のような人間になって、人間じゃないような不摂生な時期でさえ、たいした病気をしたことがなかった。高熱なんてほとんど出したことがない。
けれど、たまたまここ1ヶ月のあいだに40度近くの熱で寝込むことが続いて、二度目の今回は身体だけでなく、なぜか気持ちまでコテンパンにやられてしまった。(ただのインフルエンザでほぼ快復しました)
唐突に、店も、この街も、自分からすごく遠い場所にあるように感じて、
でも東京や実家はもっと離れた場所にあって、
狭くて薄暗い自分の部屋だけが現実のようで
自分の体温が籠った生ぬるい空気と白い天井、咳をしてもひとり、
急に孤独や不安や自己嫌悪が一斉に押し寄せてきて、それらをひっくるめた寂しさの警鐘にウワッと叫び出しそうになってしまった。
SNSを見ているとなぜか余計に寂しくなってしまい、休みの日もチェックを欠かさなかったインスタやツイッターすら見れなくなってしまった。
※代わりに普段ほぼ観ないyoutubeでひたすら板橋ハウスを流し続け、アマプラでスキップとローファーを全話観ました。
(現実から完全逃避して心のヘルシーを取り戻せました)(みんなも観てほしい)
いつまで人って寂しいんだろう……?
なにかを失うことで寂しさが生まれるのだとしたら、大切なものを沢山つくるのが良いのだと、前に人から教わった。その頃のわたしは、花が枯れるのも、夏が終わるのも、とにかく寂しいとセンチメンタルに嘆いてしまう厄介さをもっていたから、なるほどと思って、そこから大切なものを何倍にも増やした。
お陰様で、花が枯れてもあまりメソメソしなくなった。
だけどやっぱり突発的に寂しさはやってきて困ってしまう。
寂しい気持ちを否定しない、そういうものだともう受け入れているけれど、だけどある種の”耐え”ではある。
わたし、もう27歳なのに……。この先、30歳になっても、50歳になっても、こうやって時々耐えるんだろうか。
大人になったら、次第に満たされて、もしくは足るを知って、寂しくなくなっていくんじゃないのか。
少しずつ耐えて、耐えて、それで「良い加減にしてくれー!」と、いつか限界に達して、ごまかしが利かなくなるんじゃないか。大丈夫か。(昨日すでに達しそうになったけれども……)
こんなに大切なものが沢山あって、好きな人たちが近くにも遠くにもいて、自分でお金を稼いで、食べるものがあって、あたたかい寝床があって、自由があって、自分の楽しいも嬉しいも沢山知っているのに。これで寂しいなんて良い加減にしてくれよと思ってしまう。寂しいから逃れたい。
みんなもそうなのかな?
それともすでに、寂しさとうまく付き合えてるのかな
お酒でも飲みながら、寂しいについて明るく語る会をしたいです。
(あと板橋ハウスについても語りましょう)