シン新人育成論(あるものをあると伝える)
最近見習として来ている若者がいます。
過日ポッドキャストの「おやかた、話そうよ!」#15教えるとは、願うこと
で話したのですが、「願い」があると
ものの見方も変わるようで、そうなると
教え方も自ずと変わるみたいです。
私、左官家の左菊(鈴木 一史)の最新版を彼にお届けしているのですが、それは自分のアウトプットにもなり、自分のアップデートにもつながる。
双方にとって非常に良い関係性が出来ているかもと「私」は思います。(彼がどう思っているかは定かではないです(笑))
そんな関係性で感じたエピソードを披露しませふ。
30年のキャリアは単なる時間の差でしかない
彼は、未経験。私は幸か不幸か30年、同じことをやってきました。そこには歴然とした差があるわけで。
彼は「親方はすごいな」と感じるわけですが、30年前の私と彼はほとんど違わないわけです。なので私はこう考えます。
「人間ってすげえな。30年も同じことやっていると、こんなに違うんだな。。。」と。
そこに能力の差はほぼないわけで、ただ単にかけた時間の「差」だけでしかないのです。
出来ない事と、出来ていることをしっかり見つめる
見習いだと出来ていないことばかり。
と勘違いする。でもそうそれは「勘違い」である。
見習いだから出来ていないと正当性を主張してしう。これは頂けない。
見習いだけど私(親方)と同じことが出来ていることも多いのだ。
朝、現場に来る。できているじゃないか。
お昼ご飯を食べる。できているじゃないか。
終業時間で帰る。できているじゃないか。
とかく教える方も、不足している部分のみを指摘しがち。
これは主従関係を確定して、人格をコントロールするのが容易な手法だからだと私は感じます。
また、若い世代も指摘されるのがとかく嫌い。なので指摘される前に出来ていないことをさらけて楽になりたい気持ちもあるかも知れない。それだと、自分の不足部分に目が行き、出来ている部分を伸ばすということをおろそかにしてしまうので、だめだと思う。
自分の出来ていない部分を見るならば、必ず同じだけ、出来ている部分を洗い出さなければいけないのだ。
人間に備わっている「補正する能力」を最大限活かす
具体的な指導について話してみませふ。
左官の動作で一番最初に難しいと感じるのが
材料をコテにのせる作業。コテ返しです。
コテ返しの動画
動画で説明していように、ノウハウ(情報)も大切だが、
一番大切なのは、「材料をこぼしてしまう。」という体験だ。
この体験の数が多ければ多いほど、人間に備わっている補正する能力が発動する。
材料をこぼしてしまうと、自ずと嫌悪感が湧き上がる。
そうなると、それを補正しようと無意識領域が発動する。
嫌な体験を回避しようと勝手に補正するのである。
私の考えでは、個々の能力の差などありはしない。
あるのは、この人間本来備わっている能力を信頼することができるかどうか?
そして、その能力が備わっている自分を信頼できるかどうか?である。
現在地を把握する
現在地は、目的地があってこそ出てくる概念。
なので目的を明確にすることは大事だが、
それ以上に現在地を把握することの方が大事だと。
目的地は途中で変わってもいいが、
今この瞬間。自分は何をしているのか?
親方の命令を遂行しているだけでは駄目である。
例えば将来空家だらけになるこの国で、
少しでも古い家をリノベーションして再利用することが
喜ばれるし、楽しい。そのための
今日この作業。
ここまで見えてくると良い。
そこまでゴールが明確でないときも、
例えば、掃除一つとっても、清潔な現場を作ることで
空間に緊張感を作って壁を傷つけにくい状況にする。とか。
養生のテープを貼るにしても、仕上げの作業を一度やってみてから
教えると飲み込みが速い。目的が明確だから。
以前の見習いに対する教え方は順序が逆だと思う。
仕上げは一人前になってから。では、目的が明確にならないので
ひとつひとつの作業に信頼が置けないのだと思う。
とまあ、熱弁をふるったものの、
少しずつ出来ることが増えて喜んでいる姿を見ていると
それだけでこちらも楽しくなるものです。
圧倒的な年の差を感じるからこそ湧き出るのかもしれない「願い」
人生は年を重ねて出来ることが出来くなることが増えるのに比例して、
見えなかった人の心が見えてくるのかもしれないと思うと、
ナイスミドルになりつつある私も、嫌いではないと思うのです。