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表現する事とは、生きる事

いつもの仕事とは違い、クライアントが私自身。
私の作りたい物を作る。
すなわち、表現する。
ということが稀にある。
いや、むしろ自らそこに向き合うようになった。
最近の話だ。

なんの制限もない状態。完璧に自由。
しかし、その自由こそ恐怖そのものだったりもします。

時間やお金、環境などの制約や制限の中で作るものには、表現の枠が設けられ、言わばヒントが360度ある状態とも言える。
限られた制限の中が、かえって完璧に自由であったり。

他方、なんの制限もない環境下で出てくるアイデアに、自分で幻滅して軽蔑したりする。
完全に自由だからこそ、自分の中からにじみ出て来る感情に囚われたりする。これが非常に苦しい。自分の恥部を凝視するかのようで。


日常の生活で営む活動には、日々の積み上げが感じられ、
前進しているという感覚が芽生え、心が高揚したりする。
効力感が得られるのも幸せである。

他方、今日もアイデアが下りてこなかった・・・
そんな状態にいよいよ、際の際まで追い込まれ
生きた心地がしなかったりす。

日常の生活で営む活動には、評価が下され。
喜んで頂けたら喜び。 
不満を言われると悲しむ。自己を手放す感じだ。
自分を切り落としているようだ。

他方、出来の良し悪し関係なく出てきた物を、見て、見せつけられる。
心がヒリヒリする。
自分が自分に問う、これ良いか?
前進が感じられない日常に、憂鬱な気分にもなる。

ただ、愛おしい物ができた時は、もうそれで良いと思える。そして、可愛い我が子を一緒になって可愛がってもらえると嬉しいし、
可愛くないと言われても可愛いに変化はない。
ありのままで良いのです。

技術や修練は、自分を型にはめる作業で
表現はその修練で得られた術を
無意識領域で扱えるようになると、
割とカタチになるような気がする。
悔しいこともたくさんあるけど。

最近かんじるのは、心の反応が一番苦しい。
生まれてから今まで、インプットされた
常識やモラル。同調圧力。
自分の中から出てくる感情なのか、情報としての反応なのか?
この区別が難しい。

情報からの反応をそいでそいでそいでいったとき、その時の感覚が快であろう不快であろうとそこを味わう。味わい切ると
そこに命がある気がするのです。

それが表現=人生なのかな?




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