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直近1年半で好転したこと

ここ1年半で出会ってきた方々とは、過去に出会ってきた人たちよりも良い関係性を築くことができている自覚があります。
客観的俯瞰的に周囲の人が見てもイエスといえるのか。自分の認識と乖離がないのか図る癖があります。だって、自分と他者の認識に大きな乖離があるのってイタいじゃないですか(笑)
それを加味しても、自身の勘違いや思い上がりではないと思います。
それは、どんな感情であっても笑顔で過ごしたり、相手の気持ちを本当の意味で想像し、行動するように努めるようになったからかもしれません。

これまでは、自身の表情や発言が周囲にどんな影響を与えるのかを考えているつもりで、「自分のことで精いっぱい」というよくある陳腐な免罪符で気遣いと想像力を蔑ろにしていたのだと思います。辛らつな言い方をすれば、なめていたんだと思います。なめているという自覚すらないほど、なめていたんだと思います(ごめんなさい)

「楽しくなくても、笑え」
とある人に何度も言われた言葉です。
笑っていると、自分に対する印象が変わる。
一緒にいる人のタイプも変わる。
最終的に心から楽しくなって笑えるようになる。

最近はどんな出来事や気持ちも、奮起の行動結果とセットにして公にするように心掛けています。「ハッピーセット」と名付けています。
・・・いま初めて言いました(笑)
きっと多くの人は、辛く悲しい出来事そのものよりも、「どう起き上がるか?」に興味関心があると思うんです。自分の環境に置き換えることができるから。
自分の負の出来事も、そのあとの行動次第で、だれかの勇気になったり、良い影響力を与えたりすることができる。それって人間の可能性と希望の源泉な気がしているんです。沸々と湧き出るようなマグマのような大地ほどの広大なエネルギーぐらい、深くて広がりがあるものだと思っていて。

とはいえ、人間だし、いろんなことがあるだろうし、感情が溢れだしそうなときは、悲しみや辛さを吐露したっていいと思うんです。『葬送のフリーレン』ヒンメルの言葉を借りれば、「心の支えが必要なのは子供だけじゃない。」
でも必ず、人の目に触れ、耳に入るときには、かならずプラスの状態で届けられる人間でいたいんです。
「必ず好転した結果を残す」
自身への覚悟と言うと、さもカッコイイですが、決意のような自分に言い聞かせている部分もあります。

…読み返すと「ヤバい人」が浮き彫りになって、赤面どころの話ではありません(笑)
公表していないだけで、色んなことがありましたが、いつも後悔しないくらい向き合ってきたし、結果的に笑い話にできるくらい好転した出来事や人間関係もたくさんあります。

「ヤバい」が人生の谷なのか、今後をハイライトするためのただのコントラスト材料なのか。これは捉え方と今後の行動次第。

万が一、ネガティブな発言をしたときに、周囲の時間と幸せを浪費する不幸の種になるのか。それとも周囲から応援の声が集まるのか。
これは常日頃の行動次第。

心を燃やそう。

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