酒は純米|上原浩『純米酒 匠の技と伝統』|呑ん読#03
"酒は純米、燗ならなお良し。"
上原先生のあまりにも有名なこの言葉。そもそも日本に「純米」なんて言葉はなかった。純米酒以外の酒なんて存在していなかった。それが、戦争をきっかけにアルコールやその他の化学物質を添加するようになって、真に「米だけの酒」が姿を消した。戦後の米不足が落ち着いても、やがて米が余るようになって減反政策が行われても、利益率優先のアルコール添加酒は造られ続けた。
昭和60年ごろからやっと「純米酒」が注目され始め、今では純米酒・純米吟醸酒は清酒製造量の約2割を占めるようになった。そんな純米酒を昭和40年ごろに先駆けて造ったのが、上原先生の考えを取り入れた鳥取の稲田酒造場だったという。しかし当時はそのままでは売れず、他の酒に混ぜて売ったとか。今では考えられない話だ。
本書の2章から4章にかけては、原料や造りに関する詳細すぎるほどのノウハウと経験談が記載されている。「酒母歩合は生酛や山卸廃止酛の場合、6.0から7.0%が標準である」「(洗米の際の) 温度差が五度以上あると、洗った米の表面が粘って芯まで吸水しない」など、言葉としては理解できないわけではないが、造りを経験したことのない自分にとって、これらの言葉の本当の価値を掴めずにいる。本文に時々差し込まれるコラム部分に、上原先生の熱い思い(時に手厳しいお言葉)が現れているため、まずはコラムを中心に読み進めていくのがおすすめ。
現場での経験値を尊重し重視しつつも、技術や科学、そして根性とのバランスを高い位置で保ってこそ、いい酒造りができると言う。老練の杜氏が蒸米を放冷する方法について語った際に、上原先生はこう残している。
上原先生は純米酒造りについて、歴史性やこだわりの面で語るのではなく、れっきとした市場戦略に基づいて推奨している。昭和23年の全国的な大腐造に際し、山口県の大島でその対応にあたった上原先生は、大量の醸造アルコールを本土から手配し、その監督官庁ながらも酒税法の上限を超える量をぶち込んだという。
少ない米で安定的に酒を生産する必要があった時代なら、アルコール添加や三倍増醸法はやむを得ない。必要とあらば、規定量以上のアルコール添加すら行う。そして時代は下り、米不足は解消されて大手への桶売りも減り、方針転換できなかった地方の蔵が廃業に追い込まれる状況を目の当たりにして、本当にうまい酒とは何か、全国や世界で認められる酒とはどうあるべきかを考え抜いた結果、上原先生にとって「純米酒をしっかりとした技術で造ること」が最適な解であったのだ。
手厳しい言葉の中には、純米酒が日本の誇れる産物になるのだという確固とした自信と使命があった。そしてそれは、日本の農業の未来に託した希望であった。
こぼれ話
第5章では上原先生の生涯が語られている。戦時中、ついに赤紙が届いて沖縄の戦地に赴く前日、偶然にも輸送船が襲撃されて出動が中止となったという。戦後、広島の鑑定部に復職して出会った有松先生からの指導が事細かに語られている。そして鳥取県に赴き、純米酒造りへと邁進していく。
参考文献
上原浩, 純米酒 匠の技と伝統, 角川ソフィア文庫, 2015
国税庁, 酒のしおり 令和4年3月, 2022
酒にまつわる本を「酒本」と呼ぼう。
家に積まれた酒本を、一つ一つ順番に読み干していこうとする試み「呑ん読」。少しずつあげていきます。
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