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初めて読んだ少女漫画が、実は少女漫画じゃなかった
(前置きはいいから本題を早く読みたい! という方は
前振りはスクロールして飛ばしてくださいね)
前振り
エッセイが書けない。
自分が何を考えているのか。何をどう感じるのか。
言語化するのは難しいし、文章を書くとなると考えながら推敲しながら進めていくことになるから、どうしても修辞的になる。
ぽんぽんすらりと素直な言葉を書き連ねる(少なくともそう見える文章にする)のは案外大変だ。
それに、自分の体験を発信するのは、自分を切り売りするみたいで嫌だな、という思いもあった。直接会った人にあれこれ話すのと、不特定多数に一方的に語るのではわけが違う。
面白いところを誇張して人の興味を掻き立てて、面白おかしく書くのは何となくわたしのプライドが許さなかった。
でもこの一年ほど、活動をじわりと広げて、色々なことへの抵抗が薄れてきた。
ネット上で自分を売り出すのも大抵の場合相当な努力の結果なのだということが分かったし、顔出しにも抵抗がなくなってきた。
むしろわたし自身の知名度が上がることで結果的に昔の少女漫画に興味を持ってくれる人が増えるのならそれはそれでいいんじゃないかという気になってきた。
それと先日
昔の少女漫画=わたしの図式を作れたら強い
というアドバイスをもらって改めてnoteを見てみると、思ったよりしっちゃかめっちゃかで。
好きなものについて雑多に書いているから、それほど少女漫画の人という感じはしないし、記事も真面目で硬めなものが多いから、元々少女漫画に興味がある人じゃないと読みづらいかもしれない。
そういうあれやこれやの思いがあって、これまで語ってこなかった、わたしの話を今日はちょっと書いてみる。
少女漫画に関連した話で、気負わず書けて、わたしの人柄がにじみ出ているような、そんなやつ。きちんとエッセイ、になるかどうかは分からないけれど、わたしの漫画の原点の話。
本題
人生で初めて読んだ漫画は、萩尾望都『百億の昼と千億の夜』(以下、百億千億)だった。
小学校低学年くらいに親からもらって読んだ。
貪るように読んだ。あまりにも衝撃的で、何度も何度もページを繰った。
惑星開発委員会(超越者”シ”の内部組織)の手によって、世界が破滅に向かっている。
56億7千万年の未来に救いが訪れると言われているけれど、はたして本当に?
それぞれに疑問を抱いた古代ギリシアのプラトン・出家したシッタールタ(仏陀)・戦いに明け暮れる阿修羅王は、見えざる手によって導かれ、遥かな未来に出会って戦士となって立ち上がる。
おおよそこんなストーリーで、仏教とキリスト教と古代ギリシアをまとめあげ宇宙観を再構築した壮大な話であることがお分かりいただけると思う。
もちろん小学生のわたしが阿修羅やプラトンや仏陀のなんたるかを理解できていたとは思えないのだけれど、それでも「これは何かとんでもないものだ」ということは実感していた。
『百億千億』はわたしに寂寥感や不確かな現実への恐怖を教え、価値観の形成に大きな影響を与えたし(それはもう呪縛と言っても良いくらいに)、
阿修羅王に心酔して、実は阿修羅は自分のお姉さんなのだと空想して遊んだりもした。いずれ一緒に終わりなき旅に出る時が来るのだと。
何はともあれ『百億千億』はわたしの原点と言える漫画で、おそらく一番多く読み返している作品だと思う。
さて、この漫画はSF作家・光瀬龍の原作ものではあるものの、少女漫画の神様と呼ばれる萩尾望都の作品だ。だからずっと、これは少女漫画なのだと信じて疑わなかったし、「一番好きな少女漫画は?」と聞かれた時に度々その名前を挙げていた。
それなのに。
つい一ヶ月前のことだ。
萩尾望都好きにはそれなりに出会うけれど、『百億千億』を知っている人に会ったことがない。なぜなんだ、『ポーの一族』や『トーマの心臓』に勝るとも劣らない傑作ではないか。
と、愚痴をこぼした時に父が言った一言。
「あれは少女漫画じゃないからね」
どういうこと???
聞けば、『百億千億』は「週刊少年チャンピオン」に連載された少年漫画らしいのだ。
なんてこった!
少女漫画好き、少年漫画なんてほとんど読んだことがないと言い続けてきたわたしの原点は、少年漫画だったのだ!
(とはいえ絵は線が細く繊細な萩尾望都のタッチだし、詩的な文章が随所に書かれ、わたし的に少女漫画っぽいと思う表現が多く、一般的な少年漫画と呼べるものかどうか分からないが……)
少女漫画とは何なのか。ずっと分からなかったけれど、ますます分からなくなってしまった。
萩尾望都が少年漫画も書いていたことは知っていたし(『百億千億』もそうだとは思っていなかっただけで)、少女漫画ではないからといって『百億千億』に対するわたしの気持ちは変わらない。
でもショックだった。
自分の中の「常識」が崩れてしまったような感じだった。
そもそも少年漫画、少女漫画、青年漫画といった区分けをする必要はあるのか?
いやそもそもどこからが漫画なのだ?
漫画に限った話ではなく、大体の物事において区分けには大した意味はなくて便宜的にそういうことにしている、というものが多いと思う。どんなに分けても分けてもグレーゾーンは残る。
だから個人で楽しむ分にはそれが少女漫画だろうが少年漫画だろうが、あるいは漫画でなかろうが、好きなものは好きだし嫌いなものは嫌いで良い。
そういう中で「昭和の少女漫画」を「昭和の少女漫画」として推す意味ってなんなんだろう。しかもわたしが好きなのは”誰が見ても少女漫画と呼ばれるもの”ではなくて、”異端よりの少女漫画”なのだ。
結局は「少女漫画」と区分けした時の、分かりやすさ、ということに尽きるのだろうけれど。
まだ『百億千億』ショックをどう受け止めたら良いのかよく分からないでいる。
もしわたしが昭和の少女漫画の人、として認知されて、少女漫画じゃないからって、『百億千億』の話ができないなんてなったら嫌だ! って思う。
今は同じく萩尾望都の『残酷な神が支配する』を読んでいる。
これは少女漫画枠だけれど、母の再婚相手にレイプされ続けて心身のバランスが崩れていく少年の話で、かなり生々しいしえげつない。露骨な性描写が苦手でずっと読めずにいたけれど、ようやく読めるようになった。
これが少女漫画で、『百億千億』が少女漫画じゃないなんて???
分類したがるのは人間の悪癖、というようなことを言っていた人がいた気がするけれど(誰だかは忘れてしまった)、今まさにわたしは分類の迷宮に囚われている。
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