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茹でた卵は元には戻らない
病前病後のお話。
私は精神疾患の持病がある。高校卒業すぐ就職したものの、すぐに離職し半年ほど引きこもり生活をした。このままではいけないのはわかっていて、どうせならダメ元で好きなことに挑戦しようと頑張ってマンガを描いた。昔から話を考えるのが好きだったしマンガ家になりたかった。一生懸命マンガを描いたのはいいけれど、急激にいろんなことがあったせいか、脳に負荷がかかり私は壊れてしまった。
今でも不思議な体験だと思う。私が統合失調症を発症したのは今から約二十年近く前。世界の謎が解けたような万能感にとらわれて、頭の中の回転速度がどんどん上がっていく。世界がきらきらとして見えて私は寒い真冬の街をひとり寝巻きで徘徊していた。始めに異常に気がついたのは近所の人だった。あやしい子が外にいる。と通報された。警察官が迎えにきた。私は名前も言えなかった。住所も言えなかった。錯乱状態だった。
一晩警察署で保護された。翌朝私を探していた両親が捜索願を出しに来て、警察の人がその子ならここで保護していますと応えて身元が判明し親の元に戻った。そのまま保健所を通して精神科に入院した。記憶はなかった。水も飲まず、何も食べず、トイレにすら行かずに三日間眠り倒した。
もうだいぶ時間が経っているけど、病気を発症したときの感覚はうっすら覚えている。そして私は運がよかったのだなとつくづく実感する。
あの日紛れもなく不審者だった私。真冬にも関わらず、放置されることもなかった。地域の目が行き届き、警察や医療と早急に繋がることが出来て命が助かった。母は言う。一歩間違えたら死んでた。事件や事故に巻き込まれてたのかもしれないし、生命の危機だったのかもしれない。あのときの意識は朧げで、自分だけど自分じゃないような、臨死体験ってこういうことなんだろうなって感じたのを覚えている。
十九歳の誕生日を病棟で迎えた。私は自分がなんで入院してるのかよくわからなかった。高校生の頃、整形外科で入院した経験があったけど、ここの病院は手術も点滴もない。ここは何の病院ですか? って言ったら精神科ですって言われてきょとんとしたのを覚えている。
当時の私は精神科に対していいイメージも悪いイメージも何も持ってなかった。まっさらな状態だった。入院したのは開放病棟で特に行動が制限されることもなく、食事も美味しかった。なんとなくしんどい、つかれやすい、音や光がしんどいくらいしか困ることはなく、患者さんとも楽しく話をしていたので入院生活に不満はなかった。
もし病院ガチャや病気ガチャがあるんだとしたら。出来るならそんなの進んで引きたくないけど、私の場合はいいのを引いたのだと思う。発症時の状況も家族や周囲を心配させたとは思うけれど恵まれていた。統合失調症を急激に発症した場合早期に医療介入があると予後が比較的安定しているらしい。
しかし病気は甘くないもので、ここから治療という終わりのない非日常が日常化していく。
私は当時の主治医に病名宣告をされていなかったので、私は病気ではないと思っていた。本当はそんなことないとは勘付いていたが家族も何も言わなかったしそういうことにしたかった。でも症状は消えないので薬は飲む。何も聞かされなくても発症時のあの状態が異常なのは自分でもわかった。
病名を知ったのは、診察時にたまたまカルテに書いてあったのがちらと見えたからで、帰ってからネットで検索してひとり落ち込んだりした。
それからは原因がわからないのにしんどくなって入退院を繰り返した。再発なのか、そもそも回復してるのかさえもよくわからない。薬の副作用で体重が増えたり減ったりして意欲もなくなる。
仕事の方はバイトをかけもちしたりしていたが、一年続けば良い方だった。ある日突然スマホのバッテリーが切れるように、体力がなくなってしまうのだ。ひどいときは一年のなかで三回倒れ、職場に迷惑かかると自分から退職した。
そんななかで自分なりにお金を貯めて一人暮らしを始めた。家族とはギクシャクしていた。その頃の私は父の病気が理解出来なかった。父もうつを患っていた。
私は幼い頃から父が大好きだった。病気だなんて知らなかった。高校三年生のある日突然、窓の外で首を吊ろうとしているのを見たときは何が起こったのかわからなかった。
恐怖と父が死ぬかもしれない不安で泣きながら学校へ行った。家族にも友達にも誰にも相談出来なかった。そのとき受けた心の傷が癒えぬまま卒業して、強烈な五月病にかかり出社拒否になったときは私も父と一緒だと絶望が襲ってきた。
実家に精神を病むものが二人いると、もう空気が重たくなってどうしようもなくなる。労わる余裕なんてない。お前のせいで病気になったんだ、と口汚く罵り、逃げるように病院に入院してそのままアパート退院した。
あの言葉は病気が吐かせたものかもしれないし、私の本心かもしれない。
私は病気が変えてしまった何かを知りたくて今でもこうやって生きているのかもしれない。
病気との向き合い方は年齢を重ねるうちに変わってきた。最初は純粋に統合失調症の陰性症状だった。具合が悪いと幻聴といった陽性症状が出る。それから二十代中頃は軽い躁状態、三十代に入ってからはうつといった感情障害、希死念慮。
経験から対応できること、出来ないこと。その時々で変わって、神さまが私に与えた試練はどうしてこれなんですか?って問いかけたくなる。
たとえば車の運転をしてみたかった。大学に行ってみたかった。結婚や出産はこの病気では現実的ではないとあきらめている。人並に働いて仕事の愚痴を言いたかった。
病気になって悲しいのはそんな出来なくなったことではなくて、本質が変わってしまったところだ。人間の本質。
病気の前の私だったらこんな言動はしなかったという常軌を逸した冷徹な言動を取るときがある。もし私が機械だったら、大切なパーツが破損しているんだろう。それが統合失調症の脳の病気ということだろう。
人の会話に何故か入れないときもある。そういうとき相手はわかりやすく丁寧に話してくれるけれど、会話の鍵となるポイントがどう頑張っても理解できなくて寂しい思いをしたりする。
生卵と茹で卵がここにある。どちらも有精卵で孵化させれば孵るはずだった。生卵は病前の私。何にでもなる。
茹で卵が病後の私、雛が孵ることはない。高温の熱で熱して元の形には二度と戻らない。
でも、戻れなくても茹で卵は塩をつけて食べたら美味しいし、サンドイッチの具にしてもいいのだ。活かし方はなんなりとある。
病気を原因とする変えられない事実や現実、障害は確かにある。でも何もかもあきらめなきゃいけなくはない。
昔はマンガ家になりたかった。病気になってからは文章を書くことが生きがいになっている。何もない空間に自分だけの物語を紡ぐことが出来るから。
あきらめたり、打ちのめされるのは簡単で、誰かのせいにするのも簡単で。障害者だから過保護な対応だったり多めに見てもらえることがあるのも私は知っている。
でも今の私は茹で卵だけど、昔は私だって生卵だったのだ。誰だっていつ当事者になるかわからない。
それに病気や障害だけが苦難じゃないし、誰だって山あり谷ありの人生だ。
病気が変えたことは物事の感じ方や見る角度を少し変えた。本当はそれくらいの違いなのかもしれない。
いや、本当は昔ならもっと明確なハンデだったけど、文明の利器や医学の進歩や日進月歩の技術で、乗り越えられる時代になったんだよってことなのかもしれない。
多分この先もしんどい時期は訪れる。それは避けようのないこと。でもあのときの私はこんなことを考えて、書き残していたよ。そして読み返す自分や、誰かの目にとまり読まれることを願っている。