日記「いい文書/百閒とRachel」
ここのところ仕事や執筆のためにnoteの投稿をおろそかにしていましたがゆっくり再開していきます。
文書という言葉が実は好きだ。
「しょ」で終わるのがチャーミングだから。
よいしょ、とか、幼児の語彙「ごいら」「あぱま」「ゅーにゅ」などに感じる愛らしさを感じる。
なので「古文書」「公文書」「怪文書」など、硬めの単語に使用されてばかりなのが不憫である。「古文書」に至っては感染して「じょ」になってしまっているし。A4規格の鉄条網のすみっこでぎゅーっとなっている白くてもちもちした「んしょ」の姿が目に浮かぶ。
文書を解放したい。
このSNS隆盛の時代、章なんかもう長すぎる。書だ。書ならより短く、より断片的なイメージにだって適応できる。
いい文章だとひととつながりの、少なくとも800字くらいあって起承転結も全て確認した上でしかいい文章と言えそうにないけど、いい文書ならいい文、いい書である。長さも、全体の構成も、途中で切れてても関係ない。そもそも「ぶんしょ」自体が最後まで言い切っていないのだから。
ここ数年、内田百閒が好きで愛読している。文庫がたくさん出ており、短編が多いので平日でも読みやすい。
読みやすいか?
改めて読みかえすと、すごく変だ。喚起されるイメージが変なのは当然として、文の作りが変。断片だったり、異様にくどかったり、話が途中で変わったりして、幼児の一人喋りとか、スマホで打った長文に似ている。
たとえば
一フレーズが長いし「お土産の大手饅頭を、箱入りと竹の皮包みと、」など、「お土産の大手饅頭」まで書いて、箱入りのやつと竹の皮包みのやつがあった光景を思い出し、そうだったそうだったと付け足した風景が目に浮かぶ。
そうやって狭いところをぐにゃぐにゃのたうっていた文が、不意に饅頭に潰されるイメージをごろんと出されて途切れる。
読んでいる側としては、この短い文の中でも饅頭の存在感が後半にいくにつれてどんどん非現実的な重さを帯びておそろしい。
そしてこの、私が感じるおそろしさは百閒先生が饅頭を持たされた時に瞬間的に感じたおそろしさと同じだと思う。奇妙な回路(大抵は恐怖)を通して直につながったと感じられるから、百閒先生の文は好きだ。
あらゆる物事をあらゆるやり方で怖がり、精密に出力する作家である。感覚の方向性は違うけど、精密さにおいてニコルソン・ベイカーに匹敵すると思う。
ここまで書いてなぜか猛烈にRachelさんの文章を思い出し、ネットでananを読んだ。
Rachelさんは私の好きなchelmicoというラップユニットのメンバーで、ラップもすごいが文書もすごい。
何気なく読んで目が離せなくなり、アーカイブを漁った昨年の冬の朝を今でも覚えている。
!マークの横をきちんとひとマス開ける律儀さ、キーワードのデカさに対して出てくるエピソードのミクロさが、元気な小4女児の日記のような味わい。全文通して名編なので是非読んでいただきたい。
しかし読み返すと確かに百閒先生のリズムににている気がする。というか、私は二人の文を自分の体の同じところで受け取って、似たような声で読んでいる。
テンポの取り方だろうか。イメージが連想ゲームのように連なって唐突に知らないところに置いていかれる感じや、あるリズムと文体で進んでいたところからガクッと違う質のフレーズが挿入され、別の流れが展開していく感じ。
フルリフォームされているのになぜか土間のある家、みたいな。
音から書く人と文字から書く人がいて、二人とも音から書く人なのではと思う。きっと体質のようなものでどちらが優れているとかないけれど、自分が後者なので前者の文体に出会うと衝撃を受けやすい。
2人の文を併せて読んでいたら、だんだん彼らは知り合いなんじゃないかという気がしてきた。
戦後間もない東京駅、もうもうたる蒸気に包まれた一等車の中で老ボーイにエスコートされ恐縮するセピア色のRachel。
楽屋に押し入ろうとしてスタッフを困らせる百閒先生とeplusのチケットの発行に手間取るヒマラヤ山系氏。
やっぱり2階席に限る。スタンディング席の人だかりをまるで干された海苔のようだと考える百閒先生。
本当に二人が知り合いだったら楽しいけど、知り合いじゃない、生きている時代すら被っていないという事実はもっとよい。世界は広い。
二人とその文書が私という場所で合流していて、今、私がどちらも好きというのはとても豊かだなと思う。
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