7冊目-『私とは何か 「個人」から「分人」へ』
本を読み終えてから、「ああ、あれにも書いてあったことと関係ある話だ」と思ったりするのはままあることで、今回もそんな話なのだけど。
平野啓一郎『私とは何か 「個人」から「分人」へ』(2012,講談社現代新書)
と
津村記久子・深澤真紀『ダメをみがく "女子"の呪いを解く方法』(2013,紀伊國屋書店)
について。
『ダメをみがく』についてはこのマガジンの2冊目でも書いたことがあって、今回は『個人から分人へ』の方を読んでふと思い出したというわけ。
「分人」と「大家族」
『個人から分人へ』については、次のような記述にエッセンスが集約されている。
たった一つの「本当の自分」など存在しない。裏返して言うならば、対人関係ごとに見せる複数の顔が、すべて「本当の自分」である。
一人の人間は、複数の分人のネットワークであり、そこには「本当の自分」という中心はない。
たった一つの「個人」という人格があるのではなく、また、だから会う人ごとに別の(ニセモノの)キャラを演じるというのでもなく、複数の「分人」が存在することを認め、その織り合わせとして自分というものを認識せよという。
この「分人」の考え方で思い出したのが、『ダメをみがく』で深澤氏が語った「大家族」。
私の場合、大家族をたった一人で働いて支えてるおかんが「口が達者」な私で、あとは働かないアル中のおやじとか、女の尻ばっかり追いかけてる息子とか、甘いもんばっかりたべてる娘とかの「私」なの。で、働き者のおかんの「私」だけで、他の大家族の「私」を食べさせてるっていう構造。
複数の「私」が存在すること、そしてそのそれぞれを寛容すること。ほとんど「分人主義」と同じことを言っているのがわかる。
一人の時の「分人」
ただ違いがあるように感じていたのは、「分人」は他者と向き合う場面ごとに入れ替わるのに対し、「大家族」は自分一人でいるときも入れ替わりうる、という点。
と、思って数日もやもやしていたのだけど、読み返してみると平野氏もそこにきちんと言及してあって。
私の理解では、学校帰りのあなたは、学校での分人のまま、自分の個性について思い悩んでいる。アーティストの家から戻ったあなたは、アーティストとの分人で自分の個性をポジティブに考え直している。
私たちは、一人でいる時には、いつも同じ、首尾一貫した自分が考えごとをしていると、これまた思い込んでいる。しかし実のところ、様々な分人を入れ替わり立ち替わり生きながら考えごとをしているはずである。
noteを書く自分、ノリノリで日本語ラップを聴く自分、Twitterで流れてくる飯テロによだれを垂らす自分。確かに一人の時にも複数の「分人」がいる。
さらに津村・深澤両氏の場合には、一人の時の「分人」どうしが「会話」するという事態がまた特徴的。
(深澤)残りの、性格悪く、ブスで、デブで、身体が弱いといういろんな私のダメな部分たちが「あなたにがんばってもらわないと食べていけないから!」って「口が達者」な私をほめてくれるんです。「フカサワすごい!」って(笑)。
(津村)「わかるけど、でもあんた今カタン(ボードゲーム)してしまったら明日の午前中の自分、ほんまにしんどいで。自責するで」って真面目に諭すんです。もう夜中のシフトの自分が「しゃあないなあ」って書いて、「五枚書けた」ってなると「さあカタン!」ってまたやり出す(笑)。
「本当の自分などいない」ということと「どれもこれも本当の自分」ということとは、コインの裏表のようだけれども、生きやすさでは雲泥の差で。
目下いま読んでいる仏教の本で語られる要素を加えたらもっと深いところでのつながりも見えてきそうだけれども、それはまた改めて。
「分人」の恋愛
最後に平野氏からまた一節。恋愛も描く小説家らしく、「分人主義的」恋愛についての考察。
あなたは彼女に、どうしてあの野郎(!)ではなく、自分を好きになったのか、と尋ねたとする。その時の彼女の答えがこうだったとしたら?
「あなたと一緒にいると、いつも笑顔が絶えなくて、すごく好きな自分(=分人)になれる。彼といても、そうはなれなかった。その好きな自分を、これからの人生で出来るだけ、たくさん生きたい。だから、あなたがいてくれないと困ると思った。」
私なら、そう言われると、「あなたの方が好きだから」と単に言われるより嬉しいんじゃないかという気がする。あなたの存在のお陰で、相手が自分を好きになれると言った。素晴らしいことだし、あなたが彼女にとって必要な存在だということにも、リアリティがある。
まあただちなみに、これに憧れに近いような共感を抱く私自身の「分人」は、どちらかというとネクラで世話の焼けるタイプであって、あまり望みが叶うほうのヤツではないのだけれど。