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唱歌『蝶々』に秘められた戦後の歴史。

唱歌『蝶々』に秘められた戦後の歴史。
ところで日本人なら馴染みの深い唱歌『蝶々』
この歌は元々ドイツ民謡の『幼いハンス』という歌だったと数年前に知りました。
その曲に野村秋足さんが独自に歌詞を付けたのが私たちの知っている「蝶々」です。
歌詞は4番までありますが、元々1番の歌詞は
「蝶々 蝶々 菜の葉に止れ  菜の葉に飽たら 桜に遊べ
桜の花の 栄ゆる御代に  止れや遊べ 遊べや止れ」
でしたが、戦後の占領下、GHQが『栄える御代』が皇室賛美と捉えられるフレーズだと指摘して、戦後現在の歌詞に変更させられた歴史があります。
戦後、日本人に二度と歯向かわせないために、GHQは天皇に戦争責任を負わせ、天皇制を廃止させる計画をたてていました。
しかし、結果はGHQの思惑とは違い、今日も日本の天皇制は存続しております。
では、当初の予定通り天皇制を廃止しなかったのは何故でしょうか?
1945年9月27日、昭和天皇が自らアメリカ大使館に出向き、マッカーサーに初めて面会を求めた時、マッカーサーはこう思いました。
「天皇はきっと命乞いの為に来たに違いない」
ところが天皇がマッカーサーに言った言葉は、
「戦争に関する全ての責任は私にあります。
国民には一人も戦犯はおりません。
自分は死刑はもちろん、どんな裁きでも受けます。
どうか、これからの日本国民を気にかけてやってほしい。」
マッカーサーは、天皇と会談したあと、以下のような感想を述べています。
「私は大きい感動にゆすぶられた。
この勇気に満ちた態度に、私の骨の髄までもゆり動かされた。」
この後、マッカーサーと昭和天皇との会談は、計11回に上りました。
マッカーサーは回顧録に次のように記しています。


「天皇の話はこうだった。『私は、戦争を遂行するにあたって日本国民が政治、軍事両面で行なったすべての決定と行動に対して、責任を負うべき唯一人の者です。あなたが代表する連合国の裁定に、私自身を委ねるためにここに来ました』 ――大きな感動が私をゆさぶった。死をともなう責任、それも私の知る限り、明らかに天皇に帰すべきでない責任を、進んで引き受けようとする態度に私は激しい感動をおぼえた。
私は、すぐ前にいる天皇が、一人の人間としても日本で最高の紳士であると思った」(『マッカーサー回顧録』より1963年)
こうしてマッカーサーは昭和天皇と会談を重ねるたびに、天皇の戦争責任を問うべきではないという思いを強くしていったのです。
しかし、アメリカ国内の反天皇世論の勢いは衰えることなく、「天皇を戦争裁判にかけるべし」との声が日増しに高まる中、マッカーサーは「日本に天皇は必要だ」と本国に強く進言し、天皇制の存続に尽力しました。


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