後白河法皇④

藤原頼長は、「悪左府」と呼ばれるほど強引な人物ながら、兄の忠通とは終始協調する努力を続けてきた。
忠通の養子となったのもそうだし、また忠通が父の忠実によって朱器台盤を奪われた後も、頼長は養子だった頃の恩を忘れず、忠通に会えば丁重に会釈したという。
要は頼長から見れば、父の忠実が忠通に対し暴走していた訳だが、このように見ると、頼長は単なる摂関家の勢力拡大以上のものを望んでいたのだと思えてくる。
それは後の平氏政権や鎌倉幕府のような、諸権門の上に立って日本を一元的に統治するものだったのではないかと思えてならない。

保元の乱は、全て悪左府藤原頼長と信西に起因すると言っても過言ではない。
奈良時代以来の律令体制は、藤原氏の摂関政治により徐々に解体され、日本は権門勢家の世になった。
藤原氏がそれだけ繁栄できたのは、日本を権門勢家の世にしようという者達の強い支持があったからであった。
その後日本は母系カリスマによる摂関政治から、父系カリスマによる院政へと政治体制は変化したが、天皇家が政治の実権を握っても律令政治に戻る訳ではなく、摂関政治でなくても他の権門にとって不都合はなかった。
頼長は院政と競り合って摂関政治の時代、藤原氏の天下に戻そうとしたが、他の権門にとって藤原氏の天下である必然性がなかった。
それでも頼長はそれなりに成果を挙げた。ならば頼長を排せば頼長と同じことができると思ったのが信西である。
崇徳上皇は日頃から鬱懐を募らせていたが、崇徳上皇一人では何ができるということもなく、頼長がいなければ、ただ無力感に苛まれて一生を終えただろう。
頼長がいなければ、信西が崇徳上皇と頼長を謀反人に仕立て上げることもなかった。
摂関政治以来ひたすらに分裂するばかりだった日本の政体は、頼長によって初めて一元的な統治に目覚め、そしてその方向に歴史が動いていくのである。

「これはもはやいくさによるしかありませぬ」
と、信西は後白河天皇に言った。
(これは戦う準備をせねばならぬわい)
「ーー左様であるな」
後白河天皇も、心中いくさをする覚悟を決めた。
(信西、そなたの手並を見せてもらうぞ)
鳥羽法皇の初七日の保元元年(1156年)7月8日には、後白河天皇は藤原忠実、頼長の荘園から軍兵を集めることを停止する綸旨を発した。そして頼長の邸宅になっていた東三条殿を接収して、集結していた崇徳上皇方の軍勢を追い散らした。
没官(官による財産の没収)は謀反人に対する刑であり、藤氏長者が没官されるのは前代未聞のことだった。
「子細筆端に尽くし難し」と、摂関家の家司であった平信範(桓武平氏高棟流、武家平氏ではない)が『兵範記』という日記に記している。
全て、信西の手配りである。
しかし信西も不安そうである。
(信西よ、心配せずともそなたの思った通りになるだろう)
そう思いながらも、後白河天皇も胴震いのする思いでいる。
7月9日には、崇徳上皇は鳥羽田中殿を抜け出し、白河にある統子内親王のいる白河北殿に入った。
(後院も無理をなさる。もはや京にいること自体が危ういというの゙に)
白河は洛中に近く、軍事拠点として不向きだが、平氏の本拠地である六波羅に近く、崇徳上皇は自らに近い平氏の勢力を結集して治天の君となろうとしていたのだろう。
(じゃが、後院には治天の君としての実績がない)
治天の君になるには、天皇の直系尊属である必要があるが、そういう法律がある訳ではない。天皇と上皇の地位は同等であり、なんらかのパワーバランスの変化により、上皇が天皇の上に立ち治天の君となる。だから崇徳上皇が後白河天皇の上に立って治天の君となることは可能である。
しかし崇徳上皇は、これまで政務に携わったことがなかった。
政治の要は後白河天皇が握っている。その上謀反人とみなされていては兵力が集まる訳もない。
10日には藤原頼長が白河北殿に入った。他に崇徳上皇の側近の藤原教長、藤原盛憲、経憲の兄弟、武士では平家弘、源為国、源義朝の父の源為義、平忠正、源頼憲が崇徳上皇の元に集まった。
平忠正、源為義は藤原忠実の家人で、源頼憲は摂津多田源氏で、摂関家の荘園である多田荘の荘官だった。つまり皆藤原氏の私兵である。平家弘、源為国は崇徳上皇の従者に過ぎない。崇徳上皇側は兵力が圧倒的に不足していた。

一方、後白河天皇には平清盛が味方した。
清盛の継母の池禅尼はよほど聡明な人であったらしく、夫の忠盛の生前、「夫の忠盛をももたへたる者(夫の忠盛を支えるほどの者)」と言われていた。
池禅尼は「この事は一定新院の御方(後白河天皇のこと)はまけなんず。勝つべきやうもなき次第なり」と崇徳上皇方の敗北を予測した。そして子の頼盛に「ひしと兄の清盛につきてあれ」と命じた。この池禅尼のはからいにより、清盛は一門の分裂を回避することができた。
後白河天皇側は崇徳上皇方の動きを見て、「これ日来の風聞、すでに露見するところなり(日頃からの風聞が露わになった)」として動員をかけた結果、御所の高松殿は「軍、雲霞の如し」と言われるほどの軍兵で埋め尽くされた。
崇徳上皇方では軍議が開かれた。
源為義は高松殿の夜襲を主張した。しかし頼長は、
「乱暴なことをいうな、夜討ちなどは武士同士の私戦ですることだ。これは主上(この場合は後白河天皇)と上皇の国を巡る争いである」
と為義の主張を退けた。
大和の興福寺の実権を握っている真実(しんじつ)という僧がおり、この真実が頼長に加勢すると約束していた。頼長は真実の援軍の到着を待つと決めた。
頼長は所詮、いくさのできない者だった。
忠通とその子基実は後白河天皇の下に参上していたが、その他の公家は鳥羽法皇の服喪を口実にして出仕せず、事態を静観していた。
公家の臆病さ、天下を奪われたのもやむなしというべきであろう。
後白河天皇の御前で、源義朝と信西は夜襲を主張した。
(信西め、そのようなことを口にするのが恐ろしくないのか)
後白河天皇は信西を見たが、信西の顔も青い。
後白河天皇は貴族である。
夜襲というのは、朝目覚めた時に自分の首が落ちていたり焼け死んでいたりするようなことだと想像すると身の毛がよだつ思いがした。
夜襲には忠通が反対したが、信西と義朝が強硬に主張することで押し切った。
夜襲と7月11日午前未明に行われた。
清盛が300騎を率いて二条大路を、義朝が200騎を率いて大炊御門大路を、源(足利)義康が100騎を率いて近衛大路を東に向かった。
後白河天皇は3種の神器と共に、高松殿の隣にある東三条殿に移った。
数で上回り、しかも夜襲ということで勝利間違いなしというところだが、ここで後白河天皇方は一人の人物に進撃を阻まれることになる。
源為義の八男で義朝の弟、鎮西八郎為朝である。
為朝は身長7尺(210cm)、強弓の使い手で、弓を支える左腕が右腕より4寸(12cm)も長いという体つきをしていた。右手で弓を引けばより強く矢を引き絞れるという訳だ。
為朝は乱暴が過ぎて、13歳の時に為義に勘当され、九州に追放されたが、勝手に鎮西総追捕使と名乗って、菊池氏や原田氏などの九州の豪族と数十回のいくさを繰り返し、3年ほどで九州を平らげてしまった。そのため鎮西八郎と呼ばれた。
頼長が為義の夜襲の提案を退けた時、為朝は「兄上(義朝)は必ず夜討ちを仕掛けてくるだろう」と悔しがった。
後白河天皇方が夜討ちをかけてきて、頼長は慌てた。
夜討ちの提案を蹴られて拗ねる為朝を宥めるために急ぎ除目を行い、為朝を蔵人に任じた。しかし為朝は、「元の鎮西八郎で結構」と除目をはねつけた。
為朝は鎮西の強者28騎を率い、鴨川を挟んで後白河天皇方と向きあった。
川向こうで清盛の郎党の伊藤景綱とその子の忠清と忠直が名乗りを挙げたが、為朝は「清盛でさえ物足りないの゙にお前らでは相手にならん」と余裕しゃくしゃくである。
怒った景綱が「ならば下郎の矢を受けてみろ」と言って為朝に矢を射掛けた。
「物足りない敵だが、今生の面目とせよ」と為朝は言って、矢じりが7寸5分(22cm)もある鑿(のみ)に矢軸をつけたような太矢を射ると、矢は忠直の体を貫いて、後ろの忠清の鎧の袖に突き刺さった。
忠清がその矢を清盛に見せると、清盛は怖気づいてしまった。
「父上、口惜しいことにございます」
と、清盛の嫡子の重盛が言って為朝と戦おうとしたが、清盛は慌てて制止し、清盛は為朝の持ち場を離れた。
清盛が引いた後は義朝が為朝と戦うが、為朝は後に源頼朝に仕えた大庭景義が「無双の弓の達者」と称賛するほどの弓の腕前を見せ義朝の手勢のうち53騎を討ち取った。
思いの他攻めあぐねた後白河天皇方は、源頼政、源重成、平信兼と投入し、さらに白河北殿の西隣にある藤原家成邸に火を放った。
火は辰の刻(午前8時)に白河北殿に燃え移り、この火攻めが後白河天皇方の決定的な勝因となった。
崇徳上皇や頼長は御所を脱出して行方をくらませた。
為朝が率いる28騎は23騎までが討ち取られ、為朝は為義と共に逃げた。
後白河天皇は、戦勝の報告を受けて高松殿に戻った。

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