伊達政宗⑯
「左京大夫、そなたが一揆を煽動したと飛騨が申してきており、このように証拠も証人も揃えておる。何か言うことはあるか?」
秀吉が言った。
政宗は須田伯耆ら証人を見やり、
「確かにこの者供は我が家中の者にござりまする。このように申し立てられ、殿下の御心を煩わせたことはそれがしの不徳の致すところでござりまするが、肝心の一揆を煽動したということにつきましては、それがしには全く身に覚えのないことにござりまする」
と政宗は縷々と述べた。
「ならばこの証拠の文についてはどうじゃ?」
秀吉が言った。
「拝見つかまつりまする」
と政宗が言った。
政宗は書状を受け取り、しばらく書状を見つめていたが、
「この書状、それがしの筆跡によく似ており、見間違えるのも無理はござりませぬ。しかしこの書状はそれがしの書いたものではござりませぬ」
と言った。
「どういうことじゃ?そなたの筆跡に似た偽物とでも言うつもりか?」
秀吉は検断する者として、あくまで厳しい口調で言った。
「左様にござりまする。似ておりまするが真っ赤な偽物であること紛れもござりませぬ」
「おかしなことを言う奴よ。そなたの筆跡に似ておるのに偽物であることをどうやって証明するというのか」
「はっ、この花押(自署の代わりに用いられる符号)」
政宗は書状の花押を指差した。「それがしの花押は鶺鴒(せきれい)を模したものでござりまするが、この鶺鴒には目がござりませぬ」
「なにっ?目じゃと?」秀吉が怪訝な表情をした。
「左様にござりまする。世の中には真筆同様に似せて書く者もおり、その場合いかに清廉潔白であろうとも罪に陥れられることは避けられませぬ。それがしこのようなこともあろうかと、武将の心得として花押の鶺鴒の瞳を針で突いて目を点じており申した。このことは祐筆でさえも知らぬことにござりまする」
政宗が滔々と述べたので、満座がざわついた。「武将の心得」などと政宗が言っても、そこまでの用心をしている者など、大名でもいないのである。
「そなたの真筆には全て鶺鴒の瞳に針で突いた穴があるというのか?」秀吉が政宗に尋ねた。
「はっ、左様でござりまする」
政宗は言った。
この目を入れる作業を家督相続の時からしていたとしたら、用心深いというよりもむしろ曲者というべきだろう。
秀吉は表向き厳しい表情をしていても、追求はほどほどにして「政宗に嫌疑なし」とするつもりであったが、
(なんとも可愛げのない……)
という思いを持った。政宗は秀吉に取り入ることで罪を逃れようとしているのに、肝心の政宗が秀吉に自分の命を預けようとしないのである。
「これまでの左京大夫の書状を持ってくるように」
と秀吉は命じた。
書状を見比べてみると、確かに政宗の鶺鴒の花押には目のところに針で突いた穴があった。それも全ての書状においてである。
「何か申すことはないか?」
秀吉は氏郷の家中の者に言った。
氏郷側からは何も言わない。
「それでは、検断はここまでとしよう」
と、秀吉は氏郷に気を使い、「政宗の嫌疑が晴れた」とまでは言わなかった。
「大崎、葛西、地にはまだ残党がおるであろう。飛騨と左京大夫、共に力を合わせて一揆を平定するように」
と秀吉は言った。
まもなく、政宗は朝廷から侍従へと官位を昇進させられた。
一揆加担の嫌疑が晴れたことの婉曲な示唆である。
(見たか飛騨!儂への嫌疑は晴れたぞ!)
政宗は得意だった。
官位を得た政宗は、一揆鎮圧のために奥州へと下向した。
既に一揆は下火となっており、政宗は今度は一揆鎮圧に力を入れた。
政宗が一揆鎮圧に奥州に向かったのと入れ違いに、石田三成が奥州の検地を終えて京へと戻った。
浅野長政から、政宗の元に使いがきた。その使いが言うところでは、
「伊達侍従殿に大崎、葛西30万石を与える。その代わり長井、伊達、信夫、田村、安達、刈田6郡44万石を召し上げるとのことだった。
(なんじゃと……)
元の石高は72万石だから、44万石引いて30万石を足して58万石への減転封である。
使いの者の語るところでは、大崎、葛西一揆での氏郷の働きは第一であり、政宗から召し上げた6郡は氏郷に与えられるとのこと。
また大崎、葛西の地は一揆により荒廃が激しく、このような人心の定まらない地は奥州地生えの大名である政宗が統治するのがよりふさわしいとのこと。さらに、
「伊達侍従殿には一揆の監視のため、岩手沢に居城を置くようにとの関白殿下のお言葉にござりまする」
と使いの者は言った。
江戸時代は既に始まっている。
関ヶ原の後、西軍の総大将だった毛利防長2州に押し込められ、山陽道の山口に居城を置くことを許されず、日本海側の萩に居城を置くように家康から言われ、そのようにした。
江戸時代には、大名は山城を捨て、交通の便が良く経済の要衝となる平地に居城を置くようになった。
秀吉は家康にさえ、江戸に居城を築くように勧めた。秀吉は鎌倉幕府の起こった鎌倉や北条氏の居城の小田原に家康が居城を置くのを好まなかったが、江戸が鎌倉や小田原以上の関東支配の適地であることを見抜いていた。
つまり江戸を勧めたのは秀吉の親切心だが、秀吉は商業を中心とした経済体制を築こうとしており、大名が平地に居城を築くのは秀吉の歓迎するところであった。
しかし逆らう者があれば、江戸幕府が毛利の居城を萩にしたように、あえて僻地に拠点を置かせる意地悪もする。
それだけではない。
江戸幕府は大名を鉢植えにするように次々と転封させ、様々な難癖をつけては大名を改易したが、秀吉の場合、江戸幕府のような中小の大名でなく、大大名をいとも簡単に取り潰した。
既に、尾張、伊勢の大大名の織田信雄は、小田原征伐後転封に従わなかったために改易させられている。
その秀吉にも、改易できない大名はいる。その最大のものはもはや秀吉の仮想的と言っていい徳川家康である。
家康に対抗するために重要な毛利、蒲生、前田、宇喜多なども取り潰せず、秀吉がこれらの勢力の上に立っているのは間違いない事実である。
しかし秀吉は関白に就任することで、日本を律令国家以来の中央集権的な国家にすることを目指し、現に楽市楽座や関所の廃止、全国的な検地を実施してきている。
このことが法を空文化させることで自らの勢力を伸ばし、実質的な主権者でありながら公家に対し自らを後ろ暗い存在としてきた武士達を興奮の渦に巻き込んだ。公家の支配を脱し、日の当たる場所で自分達の権利が認められ、秀吉の作る新国家に参加できる喜びが上昇気流となって、秀吉の権力を支えている。
だから秀吉の権力は後の江戸幕府よりも強く、大大名でも「当主に器量」とみれば容赦なく改易した。氏郷の蒲生家も、子の秀行の代に宇都宮15万石への転封という、実質改易に等しい処分を受けている。
政宗は表向きは無実とされたが、こうして実質は罰を受けた。そして「逆らえばもっとひどい目に遭う」と釘を刺されたのである。
(この米沢を捨てねばならぬかーー)
しかも、取り上げられた米沢は氏郷の領地となる。
政宗は米沢を引き払い、岩手沢に移った。
大崎、葛西の地は、予想以上に荒廃していた。
政宗は、家臣の知行割を行った。石高が減らされているため、家臣達の所領も減知せざるを得なかった。
「我らは所領を離れるのは嫌でござる」
と言って、北目城の粟野重国は転封を拒んだ。
政宗は仕方なく、粟野重国を討伐した。
「荒蕪地が多うござる」
と、家臣達は不満を言った。
「なんとか開墾せい、土地はあるのじゃ。開墾して収益を上げればそれはみなそなた達のものじゃ」
政宗は言った。実質開墾事業は家臣達に丸投げの状態である。
こうして伊達家は、領内の内政の権を大幅に家臣に委ねたため、江戸時代になっても、重臣を城下町に集中させることができず、重臣が各地で自立的するようになった。
(殿は、地道な領土の開発事業が苦手である)小十郎は思った。
無理もない。
政宗は生まれた時から大大名の跡取りとして育ち、大軍を動かして各地の切り取りを行ったが、開墾事業などやったことがない。
また大崎、葛西一揆を扇動して、自分が一揆により荒廃した土地を得ることになるとは想像もしていなかった。
(何か手を打つ必要がある)
政宗は思った。
政宗はまず、岩手沢を岩出山と名を改めた。この時代に流行った、大名達による地名変更のひとつである。
また秀吉も、政宗に単に意地悪で岩出山に居城を置くように命じたのではなかった。
岩出山は、一時大崎氏が居城としたことがある。
大崎氏は足利一門の斯波氏の支流で、室町時代に奥州探題だったことは先に述べた。
つまり、大崎氏はこの地域では非常に権威のある家なのである。
政宗は、自らを「大崎侍従」と名乗った。こう名乗ることで、少しでも大崎氏の権威にあやかろうとしたのである。
またこの地には、大崎八幡宮があった。
政宗は、大崎八幡宮を崇敬することで、やはり大崎氏の権威を受け継ごうとした。
後に政宗は、仙台の北西に大崎八幡宮を遷し、安土桃山風の豪華な社殿を造営することになる。
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