後白河法皇③
近衛天皇の崩御の時、藤原頼長はちょうど妻が死んで喪に服していた。
そのため出仕できなかったが、世間では頼長が近衛天皇を呪ったと言われており、鳥羽法皇は激怒して頼長の内覧を停止した。
鳥羽法皇が噂を信じたのには、ひとつ理由がある。
近衛天皇が病気の時、病の重篤さのために関白忠通以外誰も面会できなかった。
近衛天皇が譲位の意志を示しても、父の鳥羽法皇ですら面会できず、譲位の意志は忠通を通じて鳥羽法皇に伝えられた。そのため鳥羽法皇は天皇の重篤を信じず、「忠通は嘘を言っている」と思っていた。
忠通は守仁親王への譲位を提案したが、鳥羽法皇は忠通が権力を独占しようとしていると見て提案を拒絶した。
このため法皇と忠通の関係は悪化したが、ここには二重に仕掛けられた罠があった。
天皇が危篤状態になって、はじめて法皇は天皇の重篤を信じた。
そこに頼長が天皇を呪ったという噂がきたのである。天皇の危篤の報に精神の平衡を失った鳥羽法皇は、この噂を簡単に信じた。
忠通の印象操作である。
(少し冷静になれば、頼長が帝を呪っていないことなどわかりそうなものなのに)
と後白河天皇は思った。
このことで、忠通と信西が裏で結託しているとわかる。
さらにもうひとつの噂が、頼長に追い打ちをかけていく。
誰かわからないが、近衛天皇の霊を口寄せしたところ、「何者かが朕を呪って愛宕山の天公(天帝、つまり天皇を指す)像の目に釘を打った。そのため朕は眼病を患い、ついに崩御するに至った」と近衛天皇の霊は述べた。
調べてみると確かに天公像の目に釘が打ちつけられていて、その像のある寺の住僧に尋ねてみると、「5〜6年前の夜中に誰かが打ちつけた」ということだった。
その犯人が頼長ということになっているのだが、
「愛宕山にそんな像があったとは私は知らない。知らないからできるはずもない」と、『台記』という自身の日記に記している。
その噂は、後白河天皇も聞いていた。
(信西よ、頼長に取って変わる気か)
と後白河天皇は思った。
信西と頼長は、親密だった時期がある。
信西が出家を考えていた頃、頼長がその噂を聞いて、当時高階通憲といった信西と対面した。
信西は、「臣、運の拙きを以て一職を帯せず、すでに以て遁世せんとす。人、定めて思へらく、才の高きを以て、天、之を亡す。いよいよ学を廃す。願わくば殿下、廃することなかれ」と言い、頼長は「ただ敢えて命を忘れず」と涙を流して言ったと、頼長は『台記』に書いている。
学識に優れながら不遇だった両者の思いが伝わってくるようである(ちなみに『台記』でなぜ頼長が自分を「殿下」と呼んでいるのかがわからない。「殿下」の呼称は皇族以外では摂政関白のみが認められるものである。頼長が内覧の宣旨を受けて「殿下」と呼ばせたとも考えられるが、頼長が内覧の宣旨を受けたのは仁平元年(1151年)のことであり、頼長と信西が対面したのは康治2年のことである。それでなくとも内覧を「殿下」と呼称するのは僭称である。頼長が僭称を承知で敢えて「殿下」と呼称したか、『台記』の原本は残っていないので、書写した者が頼長を「殿下」と呼称したと考えられる)。
その頼長が内覧になったことで、「天下を發乱反正(世の乱れを治め、正しい世の中に戻すという意)するとして、政治の刷新を目指した。
その後の頼長の活躍は実に過激である。
仁平元年のは鳥羽法皇の寵臣藤原家成の邸宅を破壊した。
仁平2年には、仁和寺の境内に検非違使を送り込んで騒動を起こし、仁平3年には、石清水八幡宮に逃げ込んだ罪人の追捕を行って流血沙汰となり、また立て続けに上賀茂神社で興福寺の僧を捕縛するという騒ぎを起こした。当時荘園などの領域には不入の権があったので、罪人の追捕は問題のある行為だったが、頼長はそれをやった。
これだけだと正義感の強い人物のように思われるが、そうとも限らない。
ある時、国定という頼長の召使いを殺害した犯人を捕まえたが、その犯人は恩赦で釈放された。そのことに怒った頼長は、秦公春という従者を遣わしてその犯人を暗殺した。「天に代わって之を誅すなり」と『台記』で頼長は述べている。
そういう強引なやり方のために「腹黒く、よろずにきわどき人」「悪左府」などと呼ばれ、人々の反感を買ったが、改革自体は成果を挙げていた。
仁平3年には奥州藤原氏の藤原基衡に藤原氏の荘園の年貢増徴を要求し、基衡はそれを受け入れている。後に源頼朝の義経引き渡しの要求を跳ね返した、あの藤原氏に要求を呑ませたのだから大したものである。
頼長の父忠実が兄の忠通でなく頼長に味方したのも、わがままな末っ子がかわいかっただけでなく、頼長の異能に着目したからだろう。頼長は摂関家の希望の星だったのである。しかし頼長は、極めて常識人な鳥羽法皇からは次第に敬遠されていった。
信西は、頼長にできるなら自分にもできると思ったのである。
ただし頼長の目指すところはあくまで摂関家を中心にした権門勢家の世であり、根本的には分権国家であったのに対し、信西はより統一性の高い国家を目指していた。
(目指すところは似たようなものだと思うが、あれだけ仲が良かったのに、少しでも目指すところが違えばそこまでするものか)
後白河天皇は信西を見て思った。
信西は、後白河天皇の元にも伺候するが、多くは院庁で、鳥羽法皇の政治に参加している。
「どうじゃ、後院と悪左府とうまくやるための良い手はないか?」
と、後白河天皇は信西に振ってみた。
「……」
信西は、後白河天皇の言葉を無視しても良かった。しかし、
(それも悪くない)
と信西は思い直した。
「仲良くする努力をしたが、相手が乗らなかった」
というシナリオを作るのである。
「ならば帝には、徳大寺公能の娘忻子(きんし)様を、東宮には姝子内親王を入内させるというのはいかがでございましょうか」
と信西は言った。
忻子の父徳大寺公能は後白河天皇の従兄弟であり、崇徳上皇にとっても従兄弟である。また頼長の妻藤原幸子(この時点では死亡)は公能の妹であり、これも後白河天皇と崇徳上皇の従姉妹だった。
姝子内親王は美福門院の娘だが、待賢門院の娘、つまり後白河天皇の同母姉、崇徳上皇の同母妹である統子(とうし)内親王の猶子になっていた。
こうして鳥羽法皇、信西のラインは待賢門院の生家の徳大寺家を味方につけることができる。しかし後白河天皇の本当の狙いは、
(うまくいけば、後院と悪左府との争いを回避できるやもしれぬ)
というところにあった。
忻子は、後白河天皇の子をなさないまま、中宮に冊立された。
ところが保元元年(1156年)5月、鳥羽法皇が病に倒れたのである。
(こんなに早く主上が倒れられるなら、皇位に就かないようにもっと粘るべきだった)
後白河天皇は少し後悔した。
しかし目下は、崇徳上皇と頼長の問題である。このままでは、鳥羽法皇が崩御した後に乱が起こり、兵乱に敗北すれば後白河天皇でさえ退位、島流しにされかねない。
鳥羽法皇は平清盛や源為義ら北面の武士10人に祭文(誓約書)を書かせ、美福門院に差し出させた。
焦ったのは信西だった。
頼みの網の清和源氏のうち河内源氏の棟梁、源為義は藤原忠実の家来である。
一方桓武平氏は、平清盛の継母で平治の乱で源頼朝の助命を求めていたことで有名な池禅尼がいるが、池禅尼は重仁親王の乳母であり、清盛の父忠盛は重仁親王の後見だった。
いざ乱となった時に、この二人が後白河天皇の味方となる保証はなかった。
幸いこの時期、為義の嫡子の義朝は為義と対立していた。
6月1日、法皇のいる鳥羽殿を源光保、平盛兼が警護し、後白河天皇の里御所高松殿を源義朝、源義康(足利氏祖)が警護する体制を取った。
「信西、後院に主上のお見舞いに参上して頂くのじゃ」
と、天皇は信西に言った。
信西としても、兵力を集めるために時間を稼ぎたいところである。
信西は人を介して、崇徳上皇に鳥羽法皇のお見舞いに参上するように申し上げた。
崇徳上皇は腰が重かった。
ようやく1か月経って、崇徳上皇は鳥羽殿に罷り越し、鳥羽法皇への対面を求めたが、法皇には面会できなかった。
法皇が拒否したのである。
崇徳上皇は憤慨して去ったという。
7月2日、鳥羽法皇は崩御した。
(これで乱は避けられぬものとなったか)
後白河天皇は思った。
平安時代、薬子の変を最後に、死刑は行われなくなった。
その間政争は多くあり、多くの要人が反逆者の汚名を着せられたが、一人として武器を取って反逆を起こす者はいなかった。
その理由は、「乱の首謀者」という致命的な罪を政争の敗北者に着せるのを、政争の勝利者達が回避したからである。反逆者の烙印を押された者に対する処分は実質左遷程度のものであり、平安中期の安和の変で左遷された源高明などは、左大臣という高位にありながら、「反逆に関与した」としながらも首謀者ではないという微妙な扱いで、太宰員外帥に左遷という処分を下している。
また反逆を起こす場合(実際はほとんどでっち上げ)の神輿となる皇族と、反乱の首謀者との距離も離されていた。そのため首謀者とされた者も、反乱に立ち上がることはできなかった。
しかし今や反乱の神輿となる崇徳上皇と首謀者となる頼長はすっかり同心していた。
「上皇左府同心して軍を発し、国家を傾け奉らんと欲ず」
との噂が流れた。もはや兵乱によってしか事態は収拾できないだろう。