後白河法皇⑥
讃岐に流された崇徳上皇は、讃岐の地で写経の日々を送っていた。
反省の日々を送っていることを示すためである。反省を受け入れられて、崇徳上皇は京に帰りたかった。
崇徳上皇は五部大乗経を写経して京に送り、寺に納めてほしいと朝廷に願い出た。
しかし朝廷はこの経文を受け取らず突っ返してしまった。
崇徳上皇は激怒し、やがて怒りは絶望へと変わっていった。
「後世のためにと書たてたる大乗経の敷地(置き場所)をだに惜しまれんには、後世までの敵ござんなれ。さらにおいては、吾生きても無益なり」
と言って、崇徳上皇はその後髪もくしけずらず、爪も切らず、長々と伸ばし放題にしたまま、顔色は黄ばみ、目はくぼんでやせ衰えていった。
そして崇徳上皇は、ある重大な決断をする。
「吾深き罪に行われ、愁鬱浅からず。速やかにこの功力をもって、かの科(とが)を救わんと思う莫大の行業を、しかしながら三悪逆(地獄道、餓鬼道、畜生道)に投げ込み、その力をもって、日本国の大魔縁となり、皇(おう)を取って民となし、民を皇となさん」
と言って、自らの舌先を噛みちぎって、その血をもって大乗経の奥に呪詛の誓文を書きつけ、その大乗経を海の底に沈めた。
これを聞いた後白河上皇は、
「讃岐院は何を言われるか、皇を取って民となし、民を皇となすとは讃岐院がなされずともこれから起こることじゃ」
と言って大いに笑った。
後白河上皇のこの態度、先見の明によるものか、はたまた崇徳上皇に対する後ろめたさか。
こうして、崇徳上皇の呪いによるものかどうか、まもなく平氏政権、そして鎌倉幕府が成立し、崇徳上皇は日本の大魔王として人々に記憶されることとなる。
藤原信頼は累進著しかった。
保元2年(1157年)、右近衛権中将から蔵人頭、左近衛権中将となり、官位も従四位上から正四位下に登った。
翌保元3年(1158年)には正四位上、皇后宮権亮を経て従三位、正三位参議に任じられ、公卿に列せられた。さらに権中納言となり、検非違使別当、右衛門督を兼ねた。
また信頼は、武士の力に着目していた。
信頼は異母兄の基成を陸奥守及び鎮守府将軍として陸奥に送り込み、基成の娘を藤原秀衡に嫁がせて姻戚関係を結んだ。
また自分の武蔵守の後任として弟の信説(のぶとき)を任命し、坂東への影響力を強めていった。
陸奥国は馬の産地であり、信頼が陸奥国を押さえることは、坂東を支配する源義朝への影響力を強めるということであった。
さらに信頼は、当時最大の軍事貴族である平氏にも接近し、嫡男の信親と平清盛の娘の婚姻も成立させた。
こうして信頼は、朝廷での実力者になっていった。
一方、信西は平氏一門を厚遇していた。
平氏は最大の軍事力を持つ上、清盛が播磨守、弟の頼盛、教盛、経盛がそれぞれ安芸守、淡路守、常陸介と、兄弟4人で4つの国の受領を務めていた。
その上、清盛の次男の基盛が大和守に任じられた。
信西の王土思想の実現のためには、平家の力が必要だった。
荘園整理や荘官、百姓の取り締まり、神人、悪僧の統制にも、平家の力は必要だった。
大和国は興福寺の寺領が多くあり、これまで国検をしようとしても神人と悪僧の抵抗によりことごとく失敗に終わっていた。
清盛はその強大な武力で国検を断行する一方で、寺社の特権もある程度認めて大和の知行国支配を行っていった。
保元3年、清盛は太宰大弐になった。
太宰帥の次の地位を得ることで、清盛は日宋貿易に深く関与するようになった。
日宋貿易による利益は絶大である。
日宋貿易により、清盛は平氏政権を打ち立てた時に、貿易立国を目指すようになる。
そして信頼同様、信西も平家と姻戚関係を築こうとした。
信西は自分の子の藤原成範と清盛の娘を婚約させた。
こうして、清盛の平家は信西派とも信頼派とも中立の地位を保つようになった。
信西は二条天皇の元にも自分の子を送り込むが、そのことがかえって天皇側近の反感を抱かせ、院近臣、二条側近の双方に反信西派を形成させることとなった。
(信西よ、過度の理想は身を滅ぼす元じゃぞ)
後白河上皇は思った。
信西は子が多く、その子らを累進させて院近臣や天皇の側近に送り込んだが、そのために競合が激化したため、自分の子を出世させる信西に対して反発するようになっていった。
源義朝は保元の乱後右馬権頭になったが、不足を申し立てたので左馬頭になった。
保元の乱後の義朝の昇進は順調だった。
しかしわずか12歳で従五位下左兵衛佐に任官された平清盛(武士の任官は三等官の尉から始まり、二頭官の佐から始まるのは異例のことだった)との差は埋まることはなかった。
清盛は少年の頃からこのようであったから、「親王に等しい待遇」と言われ、後に清盛が天下を取ったことと合わせて「白河法皇の落胤」とまで清盛は言われるようになるのだが、ともかく義朝も清盛も保元の乱では共に戦った者同士であり、その功績に差がある訳ではなく、義朝と清盛の差は埋まらなかった。
こうして、後白河派と二条親政派は、信西を排除するということで一致していたが、清盛の平家一門だけは信西とも関係を持ち、反信西派になびかなかった。
京の最大の兵力は平家が握っているので、清盛が京にいる限り、反信西派も事を起こすことはできなかった。
(ちとまずい形勢になったな)
後白河上皇は思った。清盛が反信西派に靡くことなく、あくまで中立を保っているのである。
後白河上皇にとって、信頼派が勝利すれば言うことはないが、信西派が勝利しても損はなかった。信西はあくまで後白河上皇に長期の利益をもたらしてくれるのである。
後白河上皇を中心に二条親政派と戦ってくれるのが一番の理想で、信頼は信西が倒れた時の保険に過ぎない。
しかしこの状況では、清盛が京を留守にした時に兵乱が起こる可能性がある。保元の乱のおかげで、公家は兵乱に対する抵抗が薄れていた。
(清盛も以外としたたかな)
清盛は信西から充分に利益を受け取り、次に兵乱が起これば、信西と信頼の対立から漁夫の利を得るのではないか?
そして、その時は来た。
平治元年12月(1160年1月)、清盛が熊野参詣に行くことになった。
12月9日の深夜、信頼は同心する武将と共に、院御所の三条殿を襲撃し、後白河上皇と上西門院の身柄を確保した。
信頼は後白河上皇の身柄を確保すると、三条殿に火をかけた。
信頼の軍勢は逃げる者には容赦なく矢を射かけ、警備に当たっていた大江家仲、平康忠、一般官人や女房が犠牲となった。しかし信西一派は既に逃亡していた。
(信頼の阿呆め、政争に関わらぬ者や女子供に矢を射ることもないだろうに)
後白河上皇は思ったが、信頼一派はそこに頭が回っていない。
後白河上皇の身柄は二条天皇のいる内裏に移されることになった。
後白河上皇を乗せる車は源重成、源光基、源季実が護送した。
後白河上皇は内裏内の一本御書所に軟禁状態になった。
翌10日には、信西の子息達が捕らえられた。
肝心の信西は山城国田原に逃れ、土の中に箱を埋めてそこに隠れていた。しかし13日、発見されて掘り起こされる音を聞いて喉を突いて自害した。
信西の首は源光保が斬り、京に持って帰った上、雑兵の持つ薙刀に首がくくりつけられた上で京大路を光保の軍勢が練り歩き、そして獄門に晒された。
(信西よ、だから言わぬことではない……)
後白河上皇は幽閉の身で、父とも思う信西の死を悲しんだ。
14日、信西の死を受けて信頼は、臨時の除目を発表した。
義朝は以前清盛が任じられていた播磨守になった。
後に鎌倉幕府初代将軍となる源頼朝は、14歳で右兵衛佐になった。11歳で左兵衛佐となった清盛への対抗措置である。
信頼は、義朝の武力を背景にして得意満面だった。
二条親政派は、信頼の独断専行に反感を持ち、密かに離反の機会を伺うようになった。
義朝の長子義平は、熊野参詣に出かけた清盛の帰路を討つように進言したが、信頼はその必要はないと退けた。
清盛は信頼とも姻戚関係にあり、清盛は信頼に協力することになると信頼は思っていた。
(どうも信頼は浅薄でいかん、これは鞍替えせねばならぬやもしれん)
と後白河上皇は思った。
一方清盛は、熊野詣に行く途中でこの変報を知った。
清盛は数十騎の供しか連れていなかったが、帰京までに伊勢、伊賀の平家の郎党が清盛の下に合流した。
清盛は17日に帰京した。
京に戻ってみると、義朝はクーデターのために少人数の軍勢を動かしたに過ぎず、対抗勢力が現れた時の合戦が想定されていないことがわかった。
(待てば良い)
と、清盛はここでもいつもの待ちの姿勢を取った。
待つほどのこともなく、清盛の帰京は情勢に変化をもたらした。
内大臣の三条公教は信西と親しく、信頼の専横に憤りを感じていた。
公教は二条親政派の藤原経宗、藤原惟方と連絡を取り、計画を練った。
計画とは、二条天皇が清盛の屋敷のある六波羅に行幸することである。
行幸と言っても、この戒厳令下に等しい京の現状においては、二条天皇の内裏脱出計画と言っても過言ではない。
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