後白河法皇⑱

東大寺の焼き討ちにより、清盛は仏敵の汚名を着ることとなった。
しかしこの時、清盛は非常の措置を取り続けなければならなかった。なぜなら高倉上皇が病で伏せっていたからである。
治承3年の政変では、後白河法皇の院政を停止しても、高倉天皇の親政、または高倉天皇が譲位しての高倉院政が可能だった。
しかしこの時点で高倉上皇が崩御すれば、安徳天皇はまだ4歳の幼君であるため、政務を行うことができず、後白河院政の復活以外に手段はなくなる。
いくら清盛でも、唯一の公的機関である後白河院政を停止することはできない。
清盛は、後白河院政が復活した場合のために、後白河法皇の力を少しでも削ごうと、院近臣を解官させたりしているが、決定打がない。
清盛はよほど焦っていたのだろう。高倉上皇の中宮で、安徳天皇の生母の徳子が、高倉上皇が崩御した場合に、後白河法皇の後宮に入るという案まで出た。
さすがにこの案は、徳子が猛烈に反対した。
後白河法皇も、この案には辟易して辞退し、沙汰止みとなった。
清盛は徳子の代わりの、清盛の七女の御子姫君を後白河法皇の後宮に入れた。
しかし後白河法皇は、御子姫君を全く顧みなかった。
(不思議なものよ、滋子が生きていた時は、滋子の向こうに清盛を見る思いで入れ込んだものだが、御子姫君には全く食指が動かぬとは)
しかし、後白河法皇にもわかるのである。清盛に打てる手がほとんどないということが。
(そのせいだろう、今の清盛には魅力がない)
そうしているうちに、高倉上皇は危篤状態となり、正月14日に崩御した。享年21。
高倉上皇の遺詔により畿内惣官職が設置され、惣官職に宗盛が任じられた。
平氏が支配できているのは、畿内とその近国でしかない。
平家はその畿内と近国に、兵役と兵糧米を課して臨戦体制を敷いた。
また、二条天皇の中宮であった高松院(姝子内親王)の高松院領も、高倉上皇の遺詔により徳子に伝領された。
(清盛め、小細工をするわ)
後白河法皇は苦々しかった。
治承3年の政変が高倉上皇の権威によって成立している以上、高倉上皇が崩御して、後白河法皇から取り上げた荘園も返還されるのは時間の問題だった。
それを清盛は、少しでも後白河法皇の力を削ごうとしていたのである。
(だが平家は小細工しかできぬ)
後白河法皇は思った。実際、平家はその支配力を大幅に増やしてはいない。
清盛は越後の城資長、奥州の藤原秀衡に頼朝を追討するように命じたが、城資長はいざ出陣という時に卒中を起こして急死、藤原秀衡は動かず、中立を維持した。
(平家は運にも見放されておる)
後白河法皇は思った。
清盛は後白河法皇の元に参内し、「愚僧早世の後、万事は宗盛に仰せつけ了んぬ。毎事仰せ合わせ、計らひ行はるべきなり」と、諸事宗盛と話しあって政治を行うように要請したが、後白河法皇は言を左右にして回答を与えなかった。
そうしているうちに、閏2月4日、清盛が病没したのである。清盛、享年64。

(さて、余はどうするべきか)
後白河法皇は考えた。
平家による南都焼き討ちは、戦略的な必要性があったが、政略的にはむしろ不利となった。
九州でも平家への造反の動きが起こり、豊後国では緒方惟栄、臼杵惟隆、佐賀惟憲といった豪族が挙兵し、伊勢、志摩でも反乱の動きがあった。
富士川の戦いの後、源頼朝は鎌倉に戻ったが、佐竹秀義を討つなどして関東を支配を強化している。
(ここは源氏に貸しを与えるべきじゃな)
清盛は生前、重衡に武将としての片鱗を見出だしており、そのため南都焼討でも総大将に任命しているが、さらに重衡を総大将に鎮西(九州)下向を計画していた。
後白河法皇は公家議定を開き、重衡の鎮西下向を中止した。
ところが、名実共に平家の棟梁となった宗盛は、改めて重衡を総大将をして東国に派遣するよう、後白河法皇に追討の院宣を要請した。
後白河法皇は反対したが、宗盛は武力を背景に院宣を強要してくる。
やむなく後白河法皇は、源氏追討の院宣を下した。
重衡は尾張、美濃国境の墨俣川(現長良川)に向かった。
対するは、頼朝の叔父の新宮十郎行家。行家は三河と尾張で、頼朝とは別に独自の勢力を築いていた。
それに頼朝の異母弟で、義経の同母兄の幼名乙若、今は出家している義円であった。
3月10日、重衡率いる平家と行家と義円の源氏は、墨俣川を挟んで向かい合った。
行家、義円軍は6000騎、平家は30000騎。
行家は夜襲を企て、川を渡って平家方の陣に近づいた。
夜襲は、戦術として悪くはない。
しかし平家方の兵は、行家勢が水に濡れていることから源氏の兵だと見抜いた。
そして平家方は慌てることなく対処し、渡河した源氏勢を攻撃した。
この戦いで義円、源重光、源頼元、源頼康といった、名だたる源氏の武将が戦死している。
平家の公達は、多くがいくさの経験を持たず、富士川の戦いまでの平家の武士は実に頼りなかった。
しかし南都焼討などの経験を経て、平家はいくさ慣れし、強くなった。特に重衡は将として大きく成長した。
重衡の態度は、最初から源氏が必ず夜襲してくると思っている者の態度である。そして予想が当たったから、平家は落ち着いて源氏と戦うことができた。
(平家が勝ったか)
後白河法皇は、まだ平家の世が続くと思った。
尾張美濃は、平家の手に落ちた。
しかし重衡は、それ以上東進しなかった。兵糧が不足していたのと、頼朝が行家に援軍を出すのを恐れたのである。
(これは幸い)
畿内近国を平家の支配圏とする情勢は変わっていない。
宗盛が畿内で勢力を振るうにも、後白河院政との協調が必要である。
そこで、後白河法皇は4月に、安徳天皇を八条頼盛邸から閑院に移した。安徳天皇を平家から引き離したのである。
7月14日、元号が治承から養和に改元された。
その頃、また源頼朝から、平家との和平を求める密奏が来ていた。
「全く謀反の心無し。偏に君の御敵を伐たんためなり。而れども若し平家を滅亡せらるベからずば、古昔の如く、源氏平氏相並び、召使ふべきなり」
というのが、頼朝の主張である。
後白河法皇は、仲介に立ってみることにした。
後白河法皇の仲介に、「その儀尤も然るべし」
と、宗盛は一定の理解を示したが、
「然れども、故入道(清盛)、『我が子孫、一人と雖も生き残らば、骸を頼朝の前に曝すべし』との仰せにて、たとえ勅命たりと雖も、受け申し難きものなり」
と言って、宗盛は後白河法皇の提案を拒否した。
(当面贅沢はできぬな)
頼朝は、関東の荘園や国衙領の収入を送ってこないのである。
東国の源頼朝の支配圏では、養和の元号は使われず、治承の元号が使われ続けた。
(ほう)
後白河法皇は感心した。京の政権を認めないという姿勢である。
(頼朝は、よほど自分の関東支配に自信があるらしい)
事態は、既に国家への反乱の様相を呈している。
(しかしこの反乱が、平家への反乱なのか、それとも余への反乱なのか)
今のところ、頼朝の勢力の前には甲斐源氏がおり、平家は頼朝の勢力と接していない。
(頼朝は今のところ放置じゃ、先々良い機会もあろう)
宗盛は再び鎮西追討を企画し、今度は現地の原田種直を太宰権少弐に任じ、菊地隆直追討の宣旨が出された。
しかし越後において、城資長の弟の城資職が横田河原の戦いで木曽義仲に敗北し、越後の大半は義仲の手に落ちた。
(平家は一進一退じゃな)
後白河法皇は思ったが、時に薄ら寒くなった。
現状、平家が最も公的な政権なのである。それなのに、平家はところどころで敗北していて、そのたびに勢力が小さくなる。
さらに北陸道で平家への反乱が起こり、能登の目代が逃亡した。
(兵糧がないからか)
と、最初は後白河法皇も思ったが、しかしそれだけではないと思うようにもなった。
後世では、この一連の平家への反乱を、平家の独裁への反発であるとみる。しかしそれは、『平家物語』の影響による視点である。
治承3年の政変で、平家は非合法に政権を掌握した。
「ならば自分達も」
と、各地の武士がより多い取り分を求めて、合法でも利がなければ従わず、非合法でも利があれば事を為すようになったのである。
(このような事態を収拾できるのか)
と、時々後白河法皇は茫然とする思いになる。
全ては、院政というものに端を発している。
藤原摂関政治の頃までは、詔勅または綸旨により、天皇または太政官による律令政治の体裁は守られていた。
しかし白河法皇に始まる院政により、律令による国家統治は完全に骨抜きにされた。
上皇や法皇はいくら尊貴でも天皇ではなく、その分公的な性格を持っていなかった。
天皇が政治を担わないなら、地位は低くても強大な勢力で政権を作ればいいということになり、とうとう平氏政権が誕生した。
ならば自分達も地方で非合法な小政権を作ればよかろうとなったのがこの動乱の様相である。そして利害がこの時勢を後押ししている。
畿内近国の武士達も、平家の召集に参じない者が増えていった。
ならばと、宗盛は貴族の荘園を奪って傘下の武士に与えたりしたが、それでも平家への離反の動きは止まらなかった。
要は手段が合法か非合法かではなく、武士にとって利益があるかで判断されているのである。このことに宗盛は気づかなかった。
そして、後白河法皇もまた、この欲望の原理に充分に気づいてはいなかった。

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