檀林皇后②
この時代の思想を代表するのは、空海だろう。
日本には欽明天皇の時代に仏教が公伝されてから、この時代に至るまで、仏教とは何かわかっていなかったといっていい。例えば昭和の時代に『ガンダム』が流行したが、『ガンダム』の意味については全くわかっていない者の方が多かったのに似ている。
そもそも、日本に入った仏教というのは、ブッダが説いた仏教ではない。
日本に入った仏教は大乗仏教で、修行をして悟りを開く上座部仏教と違い、大乗仏教は多くの人を救うのを目的にしている。しかし大乗仏教の大まかな共通点はそれだけで、大乗仏教は無数の宗派に分かれていった。
日本に入ったのは、この無数の大乗仏教の宗派の、区別しないままの仏教だったのである。
空海の初めた真言密教というのは、その大乗仏教の中で、あるいは最もブッダの教えから遠いものかもしれない。
密教の特徴は加持祈祷と現世利益の肯定である。
真言という、多くはサンスクリット語の言葉をそのまま唱える密教は、それまでの仏教にない魅力を日本人に感じさせた。
当時日本には真言の一部など、密教の欠片が流入していた。
空海はその欠片を広い集めて、理趣経と大日経を核にすれば体系だった密教になるのではないかと思った。そしてそれは、金剛智以来の中国密教とほぼ一致していた。
ブッダの仏教は、世の中には思い通りにならないことがあり、それを受け入れることを説いたものである。欲望の全肯定の果ての悟りなどではない。この点、密教はブッダの教えの真逆を行っている。
延暦23年(803年)、空海は入唐する。空海にとって、入唐は自分に密教理論の正しさの確認作業に過ぎなかった。
唐の永貞元年(805年、日本の延暦24年)、密教の第七祖の恵果和尚を青龍寺に訪ねる。恵果は空海が密教を完成させているのを見抜いて、早速奥義の伝授に取りかかる。
空海は恵果に役半年師事し、半年後に恵果が入寂する。そして翌大同元年(806年)には空海は帰国する。
この空海もまた、嘉智子が生きた平安時代初期の精神を醸成した。平安時代の人々は人間の欲望を全肯定した、ということである。当然、嘉智子にも影響を与えただろう。
嵯峨天皇には、ひとつの伝説がある。
『日本霊異記』にいう。
伊予国の石槌山に上仙という名僧がいた。
天平宝字2年(758年)に上仙が入寂する時、
「我は28年の後に国王の御子として生まれ変わり、神野と名乗る」と言い残した。そして28年後の延暦5年に、桓武天皇の皇子として神野親王が誕生した。
万海上人の生まれ変わりと言われた伊達政宗のような話だが、このことは、神野親王についての何事かを伝えているように思う。
神野親王の父の桓武天皇は、延暦26年(806年)に崩御し、皇太子の安殿親王が践祚、平城天皇となった。
践祚に伴い、元号は大同と改元された。
神野親王は皇太弟となった。
しかし平城天皇は病弱で、病のため、3年で神野親王に譲位した。
大同4年(809年)、神野親王は践祚し、嵯峨天皇となった。
嘉智子は正四位下の位階と、夫人の称号を与えられた。
翌大同5年には従三位に叙せられる。
もっとも、このように嘉智子の昇進が早いのは、あるいは身分によるものでなく、嘉智子が美人のため、嵯峨天皇に気に入られたからでもある。
それでも、桓武皇女の高津内親王を超えることは、普通はできなかったはずである。
高津内親王は、嵯峨天皇の妃を廃されたのである。
その理由は、史書には「良有以也(まことにゆえあるなり)」とあるだけで、一切が不明である。
高津内親王が生んだ業良親王は、精神に問題があったらしい。物事に識別判断する能力がなかったようである。
しかしそれだけで、生母が妃を廃されるということはない。この後精神に問題はあっても天皇になった者もいたのである。
高津内親王は『後撰和歌集』に、「直き木に 曲がれる枝の あるものを 毛を吹き疵を 言うがわりなさ」という歌を詠んでいる。
つまり、誹謗中傷の果てに妃を廃されたということである。
高津内親王の廃妃は、理由がはっきりしないことが問題なのではなく、子の精神状態という、生母の責任に帰すのが難しい問題で行われ、そしてそのことは明言されなかったようである。
高津内親王の廃妃に、嘉智子は関わっていただろうか?
嘉智子も25歳である。陰謀に関わっていた可能性は充分にある。
嘉智子が皇后になるのは弘仁6年(815年)のことだが、高津内親王が妃を廃された時点で、嘉智子は嵯峨天皇の后妃の第一人者になっていた。
嘉智子と嵯峨天皇の関係というのは、どのようなものだったのだろう。
何しろ、嵯峨天皇という人には50人の子がいたのである。この記録は江戸時代の徳川家斉と並び、日本で最も多い子作り記録である。一夫多妻が当然の世とはいえ、嘉智子は嵯峨天皇に夫として愛情を期待するところは少なかっただろう。というより心から愛情を求めたら、嘉智子は壊れてしまっただろう。
愛情の代わりに、嘉智子は地位と権力を求めただろう。
その場合、嘉智子が手を組むに格好の人物がいた。
藤原冬嗣という。
藤原氏は2代目藤原不比等の4人の男子がそれぞれ家を立てている。
長男の武智麻呂が南家を、次男の房前が北家を、三男の藤原宇合が式家を、四男の麻呂が京家を立てた。
冬嗣は藤原北家で、房前の曾孫である。
この時代、藤原四家の家格に差はない。それが冬嗣の代から、北家の力が強くなっていくのである。
嘉智子と冬嗣は遠縁でもある。
まず嘉智子の橘氏というのは、美努王の子の諸兄と佐為に橘姓を与えられたことによる。しかしその際、他に類のないことが行われた。
橘諸兄と佐為の母は県犬養三千代だが、三千代も橘姓を与えられたのである。三千代は美努王と離別した後、藤原不比等の後妻となり、光明皇后を生んだ。
そのため、橘氏には藤原氏に対し、親戚のような意識がある。
また冬嗣の妻の美都子の弟の藤原三守の妻は、嘉智子の姉の安子だった。
この縁に、冬嗣は目をつけた。
高津内親王の廃妃は、冬嗣の陰謀だという説がある。恐らくそうだろう。
そして高津内親王を排除すれば、嵯峨天皇のお気に入りの嘉智子を、光明皇后、そして桓武天皇の皇后藤原乙牟漏以来の皇族以外の皇后に押し立てれば、嘉智子と冬嗣の関係はより深まることになるだろう。
冬嗣は、嘉智子より9歳の年長である。
まだ30の半ばで、従四位下中務少輔でしかない。
しかし冬嗣は、平安時代の藤原氏の政治家にふさわしい資質を持っていた。
すなわち温和で寛容であることである。そのため冬嗣の周りには人が集まり、人の期待に答えているように見えて、人をうまく動かしていく。また物事を深く広く見る能力である。
嘉智子の性格は、その人生を見るに、内に激しいものを秘め、また直線的に考える思考の持ち主だったようである。
大同5年の時点で、嘉智子は二人の子を生んでいた。正良親王(後の仁明天皇)と正子内親王である。
正良親王は大同5年の10月25日に出生している。正子内親王は同じ年に生まれているので、恐らく双子なのだろう。この二人を合わせて、嘉智子の嵯峨天皇との間に2男5女をもうけている。
嘉智子には他に選択肢があった。夫の嵯峨天皇に従うという選択肢もあったし、同じ橘氏と協力して自らの立場を固めていくという選択肢もあった。
そして、自分の子の幸せを考えて、冬嗣と手を組むことを選んだ。
少し時間が前後する。
伊予親王という人物がいる。
桓武天皇の第3皇子で、平城天皇と嵯峨天皇の弟にあたる。
伊予親王はまた桓武天皇の寵愛が深く、天皇が狩りに出かける際には、しばしば親王の邸宅に立ち寄ったという。
平城天皇が即位してすぐに嵯峨天皇が皇太弟になっているから、皇位継承権は嵯峨天皇の次にあったことになる。
母の身分も高く、藤原吉子と言い、吉子は左大臣藤原是公の娘だった。
もっともこの時期、といっても大同2年(807年)になるが、是公は当の昔に死んでいる。
代わりに叔父の藤原雄友が大納言として後見人のようになっている。親王自身も中務卿に太宰帥を兼ねていた
要するに、皇族の重鎮であり、平城天皇と嵯峨天皇にとっては都合の悪い存在だった。
ここで、平城と嵯峨の利害が一致した。
ここに、二人の人物が登場する。
一人は冬嗣の父の藤原内麻呂、もう一人は藤原宗成という。
どちらも藤原北家の者である。しかし宗成は、北家のどの系統に属しているのかよくわからない。
官位も従五位下ということしかわからない。従五位下というと国司クラスだが、官職の記載が書き落とされている。晩年は散位、つまり無官だったことが記載されているから、わざと書き落としたのだろう。
このように見ると、北家の中で傍流だったように思われるが、官職を書き落としているのを見ると、以外に高位で、参議以上だったのかもしれない。宗成が伊予親王に近づける地位だったというのも考慮しなければならないだろう。
宗成の人物は、「才学に乏しく、不正な意図をもって媚びへつらうところがあった」という。
この宗成が、伊予親王に謀反を勧めたのである。
この宗成の動向を、藤原雄友が察知し、雄友は内麻呂に報告した。時に大同2年10月。
伊予親王もこのままではまずいと思ったのか、このことを平城天皇に報告した。
朝廷は宗成を尋問するが、宗成は「伊予親王こそが首謀者だ」と言ったのである。