伊達政宗㉔
翌慶長6年(1601年)2月、景勝は上洛し、再建途中の伏見城で家康に謝罪した。
この時には、景勝の処遇は決まらなかった。
政宗が南部領で一揆を煽動するなど、不気味な策動をしている間は、家康も景勝の処遇を決められなかったのである。
(要は一揆さえ片付けばよい)
と家康は思った。一揆さえ片付けば、政宗の動向を気にすることなく上杉を処分できる。
すると、
(そうはさせてなるものか)
と、2月7日、政宗は軍の動かした。
景勝の留守を狙ってのことである。
政宗は伊達郡に進出したが、やはり本庄繁長の手勢に阻まれ、撃退された。
3月17日、南部軍は和賀忠親の籠る岩崎城の総攻撃を初めた。
その報を受けた政宗は、しばらく様子を見ていたが、
「上杉を攻める」
と、3月24日、兵を動かした。
2月に兵を動かした時は、まだ景勝の去就は決まってはいなかった。
しかしこの時点では、家康は景勝の降服を受け入れている。景勝の処遇が決まってないとはいえ、景勝はもはや敵ではない。
伊達勢は、28日に福島城を攻めた。しかし落ちる気配がない。
そこで梁川城に転じて攻めたが、梁川城の主将須田大炊は伏兵を敷いて、伊達勢を四方から攻め立てて敗走させてしまった。
すると今度は、白石宗直の家臣鈴木将監義信を南部領に派遣して、和賀忠親に加勢させたのである。
(殿のお考えはどこにあるのだろう……)
小十郎は、政宗の考えを図りかねた。
これでは伊達家が一揆に加担したことをごまかせなくなるではないか。
和賀忠親の一揆は、南部が大勢を調えたこともあり、岩崎城落城は遠くない。
福島方面も、上杉景勝が徳川家康に帰順したことで、とりあえず改易はないと、上杉家中も同様がなく、調略が効きづらくなっている。
(北も南も、もう手仕舞いじゃ。それなのに殿は合戦切り取りにご執心じゃ。こりゃどうしたものか?)
と思うが、だからといって悪手だとも思えない。
上杉の処分は決まっていないのである。家康としては上杉になるべく厳しい処分を与えて、できるだけ多くの領地を奪っておきたい。
そのためには伊達が健在でなければならず、その分岩崎城での一揆のことは、できればなあなあの処分で済ませたい。
また「みだりに兵を動かさぬように」と釘を刺してあるが、政宗にすればまだ信夫郡しか上杉から奪えていない中で、ここで軍事行動を中止せよと言われても納得できることではない。政宗の命令違反は上杉への牽制にもなることであった。
しかしさすがに、これ以上は上杉を攻めても戦果はおぼつかないと、政宗も判断した。
だが、政宗はしてもいないいくさをしたと伝えられてしまったのである。
慶長6年(1601年)4月26日に、政宗は上杉と交戦したことになっている。
4月16日に、政宗は白石城から出撃し、松川で本庄繁長の軍と交戦したが、政宗が川中で太刀打ちをするほどの乱戦となった。
このいくさで、政宗は敵に二太刀を受けたことになっている。
政宗に傷を与えたのは、岡左内定俊。
元蒲生家の家臣で、蒲生氏郷の死後蒲生家が宇都宮18万石に減封になった時に、上杉家に仕えた。上杉方では前田利益同様浪人組に属する。
奇士と言っていい。
蓄財を好み、貯めた銭に床に撒き散らし、その上に裸になって寝転がるのを楽しみとしていたという。
上杉家中でもこういう左内の評判は良くなかったが、会津征伐が起こると、財貨の多くを主君に献上し、また同僚に貸して与えた。上杉家が米沢30万石に減封になると、債権の証文を全て焼き払い、上杉家を退散した。
伊達勢は、政宗が傷を負いながらも、上杉方を蹴散らしたが、柳川城主須田長義が政宗の本陣めがけてつきかかってきたため、伊達勢も敗走した。
この間、政宗は堺の今井宗久の子、今井宗薰に書状を送っている。
内容は、「秀頼君は成人するまで家康殿の手元で育て、成人した暁には、関東で2、3ヶ国を与えるべきだと思うが、私からは申し上げにくいので、そちらから冗談めかしてでも伝えてほしい」というものである。
日付は4月21日。
緊急を要する手紙ではない。非常に穏健で良識的な、徳川家への対豊臣策の献策である。
4月21日は政宗は戦場にいるので、このような手紙を出せないことはないが、若干の不自然さがつきまとう。
現代では松川合戦がなかったという見方が大勢であり、あるいはそうなのだろう。
一方、南部領内の岩崎城では、4月26日に南部方が城に火をかけ、落城した。松川合戦と同じ日付である。
松川合戦は『改正三河後風土記』、つまり徳川方の資料になぜか多く記載されているため、政宗の不審な行動に、徳川家の者達も苛立ちを感じて、政宗が岡左内に切られるという創作物が生まれたのだろう。
和賀忠親は、ひとまずは落ち延びるのに成功した。白石宗直家臣の鈴木義信は、この時戦死したらしい。
はるか西の伏見で、家康は政宗の様子を観望していた。
(もう、政宗もタネは尽きただろう)
と、家康は見た。
が、岩崎での一揆については、一通り追及しなければならない。
家康は政宗に使者を送った。
「ーー当方は一切関わりござらぬ」
と、当然政宗はこの1点を押し通した。
「ならば大崎侍従の家中の者が一揆に加担したことについては?」
と、家康の使者は鈴木義信のことも調べ上げている。
「なるほど、人は様々なところに縁があり、将監(鈴木義信)の主君の白石には、一揆に加担する者がないように厳しく申し聞かせており申したが、命令を聞かずに一揆に参陣した者がおったのは間違いないようでござる」
「それは少将殿(政宗)の手落ちでございましょう」
「もっともでござる。白石はこちらで処分致そう」
と、政宗は白石宗直を水沢から登米郡寺池に転封とした。
家禄の増減はない。実質的な処罰ではなかった。
「このこと、我らの殿にお伝え致しまするぞ」
と、使者は政宗が家臣に実質的な処分をしないことに、業を煮やして言った。
「おうとも、内府殿によくお伝えくだされ」
と、政宗は怒るでもなく、鷹揚に構えた。
「当方としては、和賀忠親の首がなくば納得できることではござりませぬ。草の根分けても探し出して、和賀の首を差し出して頂かねば」
と使者は言った。
「もっともなこと、和賀が伊達の領内にいるならば、必ず捕まえて首を差し出すであろう」
政宗は言ったが、
(これは和賀の首を差し出さねば収まらぬな)
と思った。
和賀忠親は。国分尼寺に匿われていた。
政宗は、和賀忠親にこれまでの次第を伝えた。
すると、
「これはお家の一大事、お家のためなら我ら一同切腹致しましょう」
と言って、和賀忠親は近臣達と共に自害した。
政宗は、忠親の首を南部に送った。
政宗は後に、忠親の嫡男の義弘を120石で召し抱えた。
「伊達少将に、信夫郡2万石を加増」
と、家康は処分を言い渡した。政宗の白石城の領有は認め、減封も行わなかった。これで岩崎一揆の件は解決したとした。
これで、伊達家の仙台藩の領域が確定し、60万石となった。
しかし政宗はなお「百万石のお墨付き」を盾に、不服を言い続けた。そこで家康は、近江国蒲生郡内5000石を与えることにした。
(ひとまずはこれでよかろう)
政宗は思った。上杉の処分を遅らせ過ぎても、かえって不都合な結果になりかねない。
8月、上杉景勝は再び上洛し、米沢30万石への減封を言い渡された。
政宗は、千代を仙台と改名した。
いわゆる仙台開府である。
首都または拠点を移すのには、法則がある。
それは敵地を占領することでその土地を得ることである。ロシアのピョートル大帝は、スウェーデン相手に戦争をして、奪った土地にサンクトペテルブルクを造営した。
かつて平清盛は、福原(現在の神戸)に遷都しようとしたが、本来なら大阪にでも遷都したかっただろう。しかし大阪の地は渡辺綱の子孫の渡辺党の土地だったので、清盛は福原で満足するしかなく、しかも土地が手狭で遷都ができなかった。
江戸時代になると、中小の大名は幕府の鉢植え政策で諸方に転封されることになるが、この時代はまだ、よほどの権力があっても、
「先祖伝来の地でござるゆえ」
と、代わりの土地を与えようとしても家臣が動いてくれないものだった。
千代(仙台)の地も、伊達家の家臣の国分家の領地である。しかし好運なことに、国分家の当主で政宗の叔父の国分盛重は、伊達家を逐電しており、国分家の領地は伊達家の直轄領になっていた。
仙台の地は、古くは宮城野と呼ばれたことはかつて触れた。
仙台平野は奥州では最も広い平野で、その広汎な土地から豊かな恵みを得られる。仙台はその中心である。
城は青葉山に築かれた。
秀吉の薫陶により、政宗の中で目覚めた、安土桃山の豪壮で華麗な建築、芸術は、政宗の気風に実によく合っていた。
青葉山の側を流れる広瀬川を防衛線とし、青葉山の本丸に豪奢な本丸御殿を中心に、周囲に4基の三重櫓、1基の二重櫓、多門櫓などが建ち並んでいた。
大手門には金箔で菊桐の紋をうち、本丸御殿の車寄せは白木造りだが、旭日、鳳凰、人物、鳥獣、花模様など多彩な彫刻が掘り込まれ、終日見ていても飽きないことから日暮し門と呼ばれた。
本丸御殿の大広間は430畳もあり、周囲を金碧障の壁画で飾られていた。
秀吉の聚楽第の大広間を模した設計であったという。