後白河法皇㉘

もっとも、当時義経に同行していた三善康信が根回しをしたのかもしれない。元々貴族である康信なら、後白河法皇にも作戦の概要を伝えることができただろう。そもそも康信の同行は、対朝廷外交を引き受けてのことだった。

義経は丹波路を進み、六甲側から平家に攻撃をかけた。この経路についても源氏の首脳部は知っていたはずである。

もっとも、首脳部といっても全ての武将が知っていた訳ではない。

梶原景時は作戦の概要を知っていた可能性が高いが、一ノ谷の戦いでは範頼軍の侍大将の土肥実平と交代している。景時は能吏で武勇にも優れているが、戦術を根本的に理解する能力がなかったとするしかない。

義経は、進路について、実平以外に説明していない。

「どこに行くのだろう」

と、将卒は不安がっただろう。この不安が極に達する前に、義経は平家軍のいるところに辿りつかなければならない。

「黙って御曹司についていくのだ」

と、実平は士卒に声をかけたかもしれない。実平のような剛勇の士が、泰然として義経に従うことで、兵も安堵しただろう。

義経の進路は、山の多い地帯である。

もっとも、この方向にも平家軍が進出していた。

2月5日、義経の源氏軍と平家軍は、三草山の西で3里の距離で向かい合った。

義経は、軍議を開かなかった。

軍議をすると、その先のことまで考え、平家の本陣に奇襲をすることにまで反対意見を持ちかねない。しかし義経1人の命令では心許なかった。

義経は土肥実平に尋ねた。

「今晩夜討ちをかけるか、明日一戦に及ぶか」

すると実平の郎党、田代冠者信綱が進み出た。

「明日の合戦となれば、平家の軍勢は数を増してくるでありましょう。数の上で有利な今が、夜討ちをかける絶好の機会でござる」

義経は、最初から夜討ちをするつもりだった。

義経は夜討ちと決め、軍令を発した。

平家勢は夜討ちを予想しておらず、武具を解いて休息していた。

そこに源氏の軍勢が攻め立ててきたので、平家勢は慌てふためいて敗走した。

「勝ったぞ」源氏の軍勢から、あちこちでどよめきが起こった。

(当たり前のことだ)

義経は、思ったが口に出さず、ただこれで士卒の不安も和らぎ、黙って義経に従ってついてくると思った。

義経は実平に、7000騎を与えて平家軍を追撃させた。

義経の計算である。

元々、義経の計画では10000騎も必要なかった。しかしいくさの経験の浅い義経の命令に、兵が素直に従うかどうかは危ぶまれた。

そのため義経は土肥実平を必要としたが、最終的には、義経は軍団の中で独裁者にならなければならない。義経が独裁者になるためには、どこかで実平を切り離す必要があった。

義経が別働隊となった実平より少ない軍勢を率いるのは、兵が義経の命令にするためである。軍勢が少なく、近くに味方がいないほど、兵は将を頼って従うようになる。


翌6日、先に述べたように、平家一門は福原で清盛の法要を行い、そこに後白河法皇からの和平の使者が来た。

「源平は交戦するべからず」

という後白河法皇の言で、平家はすっかり気を緩めてしまった。


この頃、義経は兵を2分して進軍した。

兵の大半は安田義定、多田行綱に与え、夢野口から平家勢に攻撃をかけるように命令した。そして義経は、70騎だけを連れてさらに西に進むことにした。

夢野口は山の手からの攻め口だが、それほど険阻という訳でもない。兵3000なら、地形の力を借りても、勝負は互角というところだろう。


義経は、70騎を率いている。

この時代、「〜騎」と兵力を「騎」で表すが、そのほとんどは「人」と同義で、騎馬と徒歩を合わせた数である。しかし義経の70騎は全員騎馬だった。

義経が敵陣近くに近づいた時、武蔵坊弁慶が道案内となる猟師を連れてきた。

「鵯越を駆け降りて、平家に奇襲をしかけたい」と、義経は尋ねた。

軍事的には、不可能と思われたことを可能にした者が勝者となる。

しかし本当に不可能なことは可能にならない。馬で駆け降りられない断崖を騎馬で奇襲はできないのである。

義経は、鵯越の地形は情報として持っていたが、実地で見たことはない。猟師の判断で騎馬で奇襲できないとなれば、馬を降りて徒歩で断崖を降りるしかなかった。それでも奇襲の効果はある程度発揮できるだろう。しかし夜が明けてしまえば、断崖を降りる姿は平家勢に見つかってしまう。

夜が明ける前に決断する必要があった。しかし、

「鵯越は人馬では到底越えることのできぬ難路でござりまする」

と、猟師は答えたのだった。

「鹿はこの道を通るか」と義経は問うた。

「通りまする、冬に餌場を求めて、鹿もこの道を往来致しまする」

猟師は答えた。餌の多い夏場では、鹿は鵯越を通らないのであろう。鹿にとっても危険な道であるのは間違いなかった。それでも義経は、

「鹿が通えるならば、馬も通えよう」

と、猟師に案内を乞うたが、

「それがしは齢を取りすぎておりまする、代わりに息子に案内をさせましょう」

と、息子を紹介した。

義経はこの若者を気に入って、鷲尾三郎義久と名乗らせた。

義経一行は坂を登りまた降りを繰り返し、とうとう鵯越の上から平家の本陣を見た。

2月7日、払暁。

夜はまだ明けきっておらず、山の稜線がかすかにわかる程度である。

しかし日もまだ出ていないが、目を凝らすと、おぼろげにそれがどれほどの断崖であるかがわかる。

(これを降りるのか)

とは、義経でさえも思った。

義経は、平家の本陣を見た。

篝火がいくつかあり、2、3人が動く人の姿も見えたが、それだけである。

本陣は、まだ眠っている。当然、背後にいる義経達にも気づいていない。

義経は、決断するだけである。

「この坂を降りる」

義経は、左右に伝えた。奇襲である以上、大声で下知はできない。義経の決定は、口伝てで背後にいる武者達に伝えられていった。

「心して降れば、馬を損なうことはない。皆の者、駆け降りよ」

義経は、馬で降りた。義経の後に、源氏の武者達が従った。

最初は、足場を探してのゆっくりした下降だったが、そのうち勢いがついた。

2町(218メートル)ほど降ると、さらに断崖は険しくなった。

「屏風を立てたようだ」

誰がの言葉で、皆息を呑んだ。

ところどころにある岩場だけが足場となるが、岩場と岩場の間隔が広く、また高さも違う。さすがの坂東武士も怖気づいたが

「なあに、三浦でも常日頃、ここよりも険しいところを駆け降りておったわ」

と、義経より先に断崖を駆け降りた者がいた。三浦義明の末子、佐原義連である。

義連の言葉に助けられて、義経は義連に続いて断崖を降りていった。

怪力の畠山重忠は、馬を損ねてはならじと、馬を背負って岩場を駆け降りたという。

(ちっ)

義経の命令は、あくまで「馬に乗って駆け降りよ」である。重忠の行為は厳密には軍令違反であり、義経には不愉快だった。

しかし他に重忠の真似ができる者などおらず、武者達は面白がった。


義経の軍は、鵯越を降りきった。

「先駆け御免」

と、熊谷次郎直実、直家親子、平山季重ら5騎が、義経の元を離れた。

直実達は平忠度が守る塩屋口の西城戸に現れ名乗りを上げて平家勢に打ちかかった。彼ら5騎が、一ノ谷の戦いで最初に戦闘行為に及んだ者達だった。

平家方は、最初直実達を小勢と思い相手にしなかったが、放置もできず兵を繰り出してきた。


午前6時、

範頼率いる源氏の大手軍50000は、まず最初に矢を飛ばした。

平家勢は堀を穿ち、逆茂木を植えて源氏の攻撃に備え、源氏以上に矢の雨を降らせて対抗した。

同時刻、安田義定、多田行綱も夢野口で戦闘を開始した。

平家勢は2000騎を繰り出し、白兵戦に持ち込んだ。

戦っていると、源氏方は平家方の気配を感じ取れる瞬間がある。

急に平家方の勢いが弱まる時があるのである。しかしそれも一瞬で、すぐ勢いを盛り返す。

同じようなことが何度か繰り返されるうちに、源氏方は平家の本陣に誰かが奇襲をかけたという情報をおぼろげに掴んだ。

ところがこの時代の特徴として、戦略、戦術の観点がしばしば軽視されがちという点がある。


この時代、武士は名乗りを挙げての一騎討ちを好んだが、その理由は、彼ら武士が武力を持ちながらも、権威を持たなかったからである。

軍事指導者が権威を持たない場合、軍事指導者はしばしば軍隊の先頭に立ち、個人的武勇を発揮して軍団秩序を維持する。秩序が維持できなければ、軍団組織は雲散霧消する危険を常に伴っていた。

こういった行為も年季を経れば伝統となり権威となる。源頼朝が前線どころか、ほとんど戦場に赴くことなく天下を取ったのは、この伝統による権威があったからである。しかし頼朝が権威の恩恵を受ける以前、河内源氏の勃興期には、源頼義や八幡太郎義家が自ら武勇を発揮して権威を培ってきたのである。

大将が前線に出たりするのは軍団秩序の維持のためだが、戦争の論理からははなはだ不合理である。

このため合戦においては、しばしば一騎討ちという不合理な戦闘が、戦略や戦術に対する感覚を鈍らせてしまう。

武士は夜討ちなどは平気で行うから、合戦が正々堂々としたものでないことは知っている。「切り取り強盗武士の習い」という言葉もあるように、武士の本質はきれいごとではないこともわかっている。

しかし武士団は権威を与えられないことから、どうしても一騎討ちの方向に傾きがちである。よって勝敗も「数 ✕ 個人の武勇」の結果と判断しがちである。


誰かによる奇襲が敵の本陣に対し行われ、その規模や敵の被害などが不明であったとしても、奇襲自体が確証性の高い事実と判断された場合、軍隊としては、その情報を誇大に宣伝して敵の士気を削ぎ、また味方を鼓舞するのが基本である。

しかし「数 ✕ 個人の武勇」がいくさの勝敗を決すると考える源氏の武者達は、平家の本陣が奇襲されたという「確証性の高い事実」に飛びつかず、有効活用しなかった。

彼ら武士達にとっては、自分達の武勇を貶める行為だと受け取られたのかもしれない。

先に述べたように、梶原景時一ノ谷の戦いの作戦の概要を知っていた可能性が相当に高い。

景時は嫡子の景季と共に、平家方の逆茂木を取り除き、しかるのちに降り注ぐ矢の雨の中を突進し、「梶原の二度駈け」と呼ばれる奮戦を見せた。

しかし景時は、奇襲が行われたことについて何も語らず、合戦に有効活用しようともしなかった。

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