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命を預かる
うちで一緒に暮らしている猫は、元は保護猫だった。
今から14年前のことだ。とあるスーパーで働いていたパートのおばさんが、ある日、スーパーの施設内の物置のような狭いスペースに、可愛らしい子猫が3匹閉じ込められているのを発見した。
どうしてこんなところに閉じ込められているのだろうと思って、その付近にいた人に事情を尋ねると、そのスーパーの警備員のおっさんが「こんな猫、閉じ込めといたらええねん。そのうち死んでまうわ」と言い放ったという。
世の中には、猫好きな人がいれば、猫が大嫌いな人もいる。すべての猫嫌いの人がそうだとは思いたくないが、一定数の割合で、こういうふうに野良の猫に対して虐待や駆除などのムーブをかますけしからん人がいるのも事実だ。
しかし、捨てる神あれば拾う神あり。パートのおばさんは警備員からその話を聞いて激怒した。これはとんでもないことだと思い、あわててその3匹の子猫を保護して自宅に連れて帰ったという。でも、いきなりおばさんの家で3匹も猫を飼うことはできないということで、当時流行っていたmixiというSNSで、里親募集のお知らせをかけたのだ。
たまたま、そのお知らせを見ていた私の妻が、その3匹の内の1匹を貰い受けたいと私に相談してきた。新婚生活が落ち着いて、そろそろ猫でも飼いたいねと話していたところだったので、私は二つ返事で了承した。
それが、今うちにいる子だ。もう今年で14歳になる。
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猫で14歳というと、人間で言えば70歳くらいに相当することになる。
この子と向かい合っていると、いつも命のことについて考えさせられる。
最近では、「飼う」というより「預かる」と言った方がしっくりくるなと思うようになってきた。きっとこの子は、この世界の神様から私達の元に送られてきて、それを受けて私達は預かっているのだ。これは、あくまでも預かっているだけで、飼っているわけでも、ましてや所有しているわけでもない。
猫は決して、私のものにはならない。日々きまぐれに過ごし、要所要所では自分の主張をしっかり貫き通すという猫の姿勢を見ていると、そんな風に思う。そう、ただ預かっているだけなのだ。
そして、一度預かったからには、いつかは神様の元へ送り返さなければいけないということもわかっている。いつまでも側に居てくれればいいのにと思うし、この子のいない生活などもう想像もできない。けれども、それはできないのだ。
神様の元へ送り返す日のことを考えると、怖くて仕方がなくなってくる。でも、それも含めて絶対に避けられないということを自覚しておくのも、「預かる」という行為の中には含まれているのだ。
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もっと広い見方をすれば、我々人間の命だって、ただ預かっているだけなのではないかという気がしてくる。
自分の手元にあるこの自分の命も、永遠に持ち続けることはできず、いつかは返却しなければならない。命は自分の所有物ではない。だからこそ、粗末に扱うことはできないし、自分の意志で好きに終わらせたりすることもできない。なにかの宗教で、そういう考え方があったような気がするが、とにかくそんなふうに私は考えている。
この14歳の猫と共に過ごす中で、命についてそんなふうに考えるようになった。そして、そんなふうに深い気付きを与えてくれた、この子には本当に感謝だ。
これからも、ずっと一緒に暮らしていこう。
お互いの命を、返却するその日が来るまで。
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