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「意味」について考える 意味の囚われから抜け出すために

 「意味」のせいで人生がつまらないものになっている人が増えていると感じます。
 本稿は「意味」について考え、「意味」を捉え直すことで人生の輝きを取り戻すことを目的としています。

 第1章で「意味」の意味を考えます。
 第2章で「人生の意味」の難しさを乗り越えます。
 第3章で「意味が無い」という呪いを解呪します。
 そして第4章に至ることで人生の輝きを取り戻せているはずです。

 「意味」という単語に少しでももやもや感やざわざわ感を抱いたことがある方は、ぜひ本稿をお読みください。視野が広がり、景色が鮮明になるかと思います。



 ■ 第1章 「意味」の意味

い‐み【意味】
言葉が示す内容。また、言葉がある物事を示すこと。「単語の意味を調べる」「愛を意味するギリシャ語」

ある表現・行為によって示され、あるいはそこに含み隠されている内容。また、表現・行為がある内容を示すこと。「慰労の意味で一席設ける」「意味ありげな行動」「沈黙は賛成を意味する」

価値。重要性。「意味のある集会」「全員が参加しなければ意味がない」

[類語](1)意義・意い・義ぎ・概念・謂いい・こころ・語意・語義・字義・文意・含意・含み・含蓄・意味合い・旨・ニュアンス・語感・本義・広義・狭義/(2)意図・目的・理由・動機・趣意・主意・真意・ねらい・訳わけ・事情・諸事情・事由・所由しょゆう・根拠・故ゆえ・原因・由よし・謂いわれ・所以ゆえん・故由ゆえよし・事訳ことわけ・訳わけ合い・訳柄わけがら・子細

コトバンクより引用


 「意味」という言葉について調べると上記のように「1、言葉が示す内容」「2、表現や行為が示す内容」「3、価値や重要性」というように3つに分かれます。
 「意味」という言葉を発する時、それが「文意」なのか、「含意」なのか、「価値」なのかで全然話が変わってくることがわかります。

 つまりこの辺りを理解せずに「意味」という単語を使ってコミュニケーションを取ろうとすると、場合によってはそれぞれ別の方向を向いたまま発言することになります。
 結果、互いに言いたい事を言うだけで相手の心に届かないノイズになってしまいます。

 「人生の意味」や「人生は無意味」など語られる時、「3、価値や重要性」として語られる場合がほとんどでしょう。

 本稿ではこの「人生の価値や重要性」の問い方を見直したいと考えています。
 特に10代にとって「人生に意味はあるのか」という命題は大変意義のある問い掛けです。
 この問いに対して決着を付けた大人の方々はもちろん、これからこの問いに挑み続ける方々にも、ぜひ本稿を最後までお読みいただきたいと考えています。

 「人生に意味はあるのか」。そして、「人生に意味はあるのか」という問いに「意味」はあるのか。
 次の章ではその辺りをさらに深く考えていきましょう。

 ■ 第2章 「人生の意味」の難しさを乗り越える

 人はよく「人生に意味はない」と考えます。
 またある人は「人生に意味はある」と考えます。
 この問いはどちらかが間違っていて、どちらかが当たっているのでしょうか。それとも間違いや正解と言った領域の問いではないのでしょうか。

 個人的にはどちらでも良いと考えます。
 カレーライスを用いてみるとわかりやすいです。
 「カレーライスを食べることに意味は無い」と「カレーライスを食べることに意味はある」という問いです。
 「無意味派」は、大局的に見て無意味だと言います。
 「有意味派」は、局所的に見て意味があると言います。

 カレーライスを食べたところで人生に大きな影響は無い、とする「無意味派」と、カレーライスを食べると健康になる、とする「有意味派」。
 こう比べると、「無意味」も「有意味」も注目している部分が違うことがわかるでしょう。
 つまり、立場や視点によってどちらの答えにもなり得る、ということです。
 例えば、生きた証を人類史に残したい、生きている意味を実感したい、という人にとってカレーライスを食べることは無意味でしょう。
 一方、健康的な日々を送りたい、という人にとってカレーライスを食べることは有意味でしょう。野菜を食べることも水をこまめに飲むことも同じく有意味でしょう。

 つまりここでは「スケールの違い」が無意味か有意味かを区別します。
 スケール(規模)が大きくなると無意味になり、小さくなると有意味になります。
 人生に意味があるか、という問いはカレーライスを食べることに意味があるかという問いのように確実な答えが存在しません。

 ◇ 人生は非意味だ

 社会学者の宮台真司氏は「人生は非意味」と回答しました。
 「人生に意味が有るか無いか、ではない。人生は意味じゃないのだ」ということです。
 人生に意味が有るから生きる、無いから生きない、ということではない、と。
 人生に意味が有るのか無いのか悩み抜け出せないことを「意味の牢獄」と宮台氏は名付けました。

 その上で、「意味の牢獄」にいる内はある意味幸せでもある、と説きます。なぜなら、「人生に意味はあるのか」と悩み続けている間は生きていられるからです。
 問題なのは「意味の牢獄」から出た後。「(大局的には)人生に意味はない。それはわかった。ではどうすればいいのか」という次の壁が立ちふさがります。「意味の牢獄」よりも高いその壁を乗り越えるのはとても大変です。
 そこで重要になるのが「非意味」です。

 人生は意味が有るか無いかが判断基準ではないということです。
 美味しいから食べるし、動きたいから動きます。大局的には無意味ですが、それをやらずにはいられません。面白いものを見たり、気持ち良いことをしたりします。大局的には無意味ですが、それをせずにはいられないのです。
 意味があるからするとか、意味が無いからしない、という判断基準とは全然違う判断基準があることに気付くでしょう。

 カレーライスは食べたいから食べるのです。美味しいから食べるのです。
 意味があるから食べるのでもなければ、意味が無いから食べないものでもないのです。

 ■ 第3章 「意味が無い」という呪い

 「意味無いじゃん」と言えば相手を説き伏せることが出来ると思い込んでいる人がいるようです。
 冒頭に書いた「意味」のせいで人生がつまらないものになっている人と被ります。

 この反論フレーズは、使っている人自身がいまだに「意味の牢獄」に囚われていることを示します。意味が有ることが良いことで、意味が無いことは悪いこと、無駄なこと、という考え方だからです。
 チョコレートパフェを食べることは無意味だから、という理由で食べないんでしょうね。もったいない。
 つまりこのフレーズに恐れる必要はありません。むしろ「まだそこにいるんだね」と心に余裕が生まれることでしょう。

 例えばバスケットボール部に所属するケースを考えてみましょう。
 「がんばっても意味無いじゃん」と言う人は、NBAに入れない、オリンピックに出られない、良い会社に入れない、など、「何かのためにするにはバスケット部では達成できない」という思考なのです。
 損か得かで考える人。コストパフォーマンスで物事を換算する人。これらを宮台氏は「損得マシーン」と呼び、クズであると斬り捨てます。

 生きるということは、損か得かではありません。損だからやらないとか得だからやる、ということではありません。損をしたけど幸せを感じることができたり、得をしているのになぜか不幸に感じてしまう。それが人生というものでしょう。

 「意味が無い」というのは一種の呪いです。
 自ら発することでその呪いに掛かってしまうのです。
 解呪するためには先ほどの「非意味」という言葉が必要です。

 ◇ノイズも大事

 本稿の冒頭に「互いに言いたい事を言うだけで相手の心に届かないノイズになってしまいます。」と書きました。
 ではノイズは要らないもの、無駄なものなのでしょうか。
 僕はそうは思いません。
 ノイズがあるおかげでそこが取っ掛かりになる場合があります。耳障りでいつまでも耳に残る言葉。それがいつの日か「意味の牢獄」を突破するためのキーワードになる場合があります。

 『なぜ働いていると本が読めなくなるのか』三宅 香帆著ではノイズの重要性をこのように表しています。

情報=    知りたいこと
知識=ノイズ+知りたいこと
            ※ノイズ 他者や歴史や社会の文脈

『なぜ働いていると本が読めなくなるのか』より引用

 つまりノイズが加わることで知識が増す。
 その知識は無駄で無意味かも知れない。でも知識は増していく。
 知識が増えていくことで「人生は非意味だ。つまり生きているそれだけですでに奇跡的に素晴らしい。意味など必要ない」という領域に到達できます。

 損得マシーンのクズでいる内は到達できません。
 人生に意味があるか無いかでしか判断できないからです。
 「意味の牢獄」にずっと囚われたまま、誰かに「意味無いじゃん」と吐き捨てることで生きながらえる存在。
 そんなつまらない生き方をして時間を浪費して良いはずがありません。

 情報だけをインプットし続けても意味の牢獄を抜け出すことはできません。自分の中には無い意見や耳障りな意見をも取り入れることで意味の牢獄を抜け出すヒントを獲得できます。
 ぜひノイズを取り入れてみてください。

 ■ 第4章 僕たちは「意味」のために生きていない

 ここまで書いたように、人生に意味があるかどうかは大して問題ではありません。
 意味があると思いたければ思えば良いし、無いと思いたければ思えば良い。「意味がある」と思ってる人に「意味は無い」と言うのも、「意味が無い」と思ってる人に「意味はある」と言うのも、どちらも時間の無駄です。
 そしてその「時間の無駄」もノイズとなっていつかその人にとって活きる時が来るかも知れません。

 第4章のタイトルにあるように、僕たちは「意味」のために生きていません。「意味がある」も「意味が無い」も、大きなくくりではどちらも「意味」に囚われています。

 僕たちはこの「意味の囚われ」から抜け出さなければなりません。

 意味を問うことに何年も費やすのはもったいないからです。
 意味があると追い求めて30年生き、その後意味が無いという境地に至ったら。その30年は無駄だとは言いませんが、あらかじめ意味にこだわらずに30年生きた方が楽しそうです。
 同じように、「人生は無意味だ」と30年生き、その後「やはり人生に意味は無かった」と納得する人生ってどうなんでしょ。無意味かどうか確認するために費やすのに30年使うのって楽しくなさそうですよね。
 端的にその人つまんなそうです。

 要は「つまんない奴になるな」ということです。
 無意味と思って無意味と確信するのも、意味があると思って意味があったと確信するのも、どちらも意味に囚われ過ぎです。

 意味があろうと無かろうとやりたいことをやる人。相手の思想や行動に対して意味があるか無いかで語らない人。
 このような人物になるべきです。
 「意味」を価値基準にするような「意味の囚人」になってはいけません。

 ■ まとめ

 いかがでしたでしょうか。
 「意味」に囚われている方は思考が一段階上がった感覚はございますでしょうか。
 すでに「意味の牢獄」を抜け出した後の高い壁に絶望している方は、その壁を乗り越えるきっかけを得られたでしょうか。

 人生は無意味でも有意味でもなく非意味です。
 無意味にこだわったり有意味にこだわったりするのではなく、ただ人生を楽しめば良いだけです。
 逆に言えば、人生を楽しめていないから無意味か有意味かに時間を費やしてしまうのです。

「意味が見つからないから良き人生を送れないのではなく、
 良き人生を送れていないから意味にすがるのだ」

ニーチェ

 哲学者ニーチェがすでにこのように断言していました。

 良き人生を送りましょう。
 意味の牢獄に引きずり込むようなつまらない人間を唾棄しましょう。
 「意味」のもやもや感ざわざわ感を払拭して楽しく生きましょう。 


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