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7割を目指す講義NO.12 アメリカとスウェーデンにおける福祉国家の展開



1.アメリカの社会保障制度


(1)アメリカの社会福祉の特徴


アメリカは、市場原理が強くて、個人主義の考えが強いです。ですから、競争原理が非常に強い国になります。とにかく自由が尊重されます。
しかし、社会福祉に関しては、連邦政府の社会福祉政策の部分は、非常に弱い面があります。これに対し、援助技術の面は、非常に強いという特徴があります。


(2)アメリカにおけるセツルメント


セツルメントについては、以前の動画で、イギリスにおいて、1884年にできたバーネットらによるトインビーホールを始まりとするセツルメント運動を見てきました。
セツルメント運動というのは、大学生や牧師や中産階級の人達、大学の教員が、地域に入っていって、そこに住み込んで、地域の人と友人となって、地域の人達が自ら立ち上がっていけるように、いろいろな講座を開いたり、講演をやったり、クラブ活動を組織したり、いろいろな教育も提供したり、そういうことをやって改革していこうとするものになります。
セツルメントは、慈善組織協会(COS)の科学的な援助とは少し違った社会的な方向性を持っています。このようなCOSやセツルメントの源流がアメリカに渡り、イギリスよりも、もっと広く、よりスピーディーに発展していくようになります。

1886年には、アメリカ初のセツルメントができます。
このセツルメントは、スタントン・コイトによるもので、ニューヨークの隣保館である「ネイバーフッド・ギルド」の創設になります。

それから、1889年、近代社会福祉の母といわれるジェーン・アダムズ(ノーベル平和賞を受賞)が、イリノイ州シカゴに、エレン・ゲイツ・スターと共同で設立したハルハウスがあります。
開設当初は、博愛主義に基づく穏健な地域活動で、保育園、少年クラブ創設等の教育的なプログラムが中心でした。その後、社会改良思想家等が参画していき、それ以降、革新的な社会運動的側面を有するようになり、児童労働保護運動、児童相談所の設置等の児童福祉に関連する諸問題に活動の力点をおいていきました。
ハルハウスは、後に世界最大規模のセツルメントハウス(隣保館ともいう)になって、アメリカの社会改良運動の近代化に貢献していきます。


(3)アメリカの社会保障法の制定


1929年に世界恐慌が起こりました。その発端は、アメリカ合衆国のウォール街にあるニューヨーク株式取引所で、1929年10月24日(後に「暗黒の木曜日」といわれた)に株式が大暴落したことになります。
この株式の大暴落の背景には、1920年代の第1次世界大戦後の好況の中で、資本とか、設備への過剰な投機が行われ、「生産過剰」に陥り、物が売れないという事態に発展したことを受けて、アメリカの投資家(株主)たちは、それまでつぎ込んでいた資金を回収できなくなるのではないかと不安になり、株価の値下がり前に株を売ってしまおうという心理が一斉に働いたということがありました。
そして、1930年代に入っても景気は回復せず、企業倒産、銀行の閉鎖、経済不況が一挙に深刻になって、1300万人(4人に1人)の失業者が出たわけです。このような世界恐慌をきっかけとして、アメリカでは、1933年からルーズヴェルト大統領が世界恐慌克服のために示したニューディール政策(New Deal とは、「新規まき直し」の意味)の中で、連邦政府が失業救済などの大規模な行政政策を行っていきました。
この行政政策の一つとして、1935年に、世界で最初にソーシャルセキュリティー(社会保障)という名前を付けた連邦社会保障法を成立させていきます。
連邦社会保障法は、公的老齢年金、失業保険の2つの社会保険と、高齢者扶助や要扶養児童家族扶助(AFDC)などの特別扶助、母子保健サービス等の社会福祉サービスで構成されていました。しかし、法の制定当初は、公的医療保障制度は含まれていませんでした。

第24回第24問の選択肢では、福祉レジームの生成に関する問題で、「アメリカにおいては、「生活上のリスクの処理は市場に委ねる」という考え方が根強く、公的老齢年金制度も第二次世界大戦後になって法制化された。」との内容の正誤が問われています。

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