大切な曲 掌編

切りあった手首から溢れ出したのは、それまで味わったことのない優しさだった。
僕は二人の傷口から溢れる優しさを見つめながら、それまで自分を取り囲んでいた張り詰めた空気が、柔らかみのあるものに変わっていくのを感じていた。それは決して僕に気を許そうとはしなかったのに、今は温かく僕を包み込んでいる。
ふと彼女の顔を見ると、僕には一度も見せたことのない、とても満たされた表情をしていた。彼女はまるで、子宮の中で安らかに眠る、世界を、そして自分の親も知らない、純粋な生への喜びをたたえた胎児のように、安らかに満たされていた。
彼女の手首から溢れ出した優しさは、彼女の制服のスカートを濡らし、太ももを濡らし、シーツを濡らした。それは百合の花のように高貴な白のシーツだった。
反射的に、ティッシュの箱を探してしまった。血のシミが、いかに落としづらいかは知っている。しかしすぐに、そんな自分の矮小さがばからしくなった。
僕たちはもう、そんなこと気にしなくてもいいのだ。
そう思うと、なんだかとても自由な気がしてきて、目の前にひらけた世界のあまりの広大さに、笑い出してしまった。
僕が笑うと、彼女は一瞬怪訝な顔をしたものの、すぐにつられて笑いはじめた。堰を切ったように、なんて表現がぴったりだ。僕たちは、込み上げてくる温かい何かに身を任せ、ひたすらに笑い続けた。自分でも何が何だかわからなかったけれど、ただ本当に、心の底から楽しいと思えた。

穏やかな嵐が過ぎ去り、訪れたのは柔らかな静寂だった。
窓外に広がる空は、大きいけれど少しだけ不恰好な月のおかげで、ほんのりと青くなっていた。

僕のいない朝は今よりずっと素晴らしくて

ふと、僕にとって大切な曲の一節を思い出した。それは彼女にとっても大切なもので、僕と彼女を繋ぎ止めていた曲でもあった。
これでよかったんだ。
変に抗い続け、ほつれさせたり絡ませたり。抗えば抗うほどに、取り返しがつかないくらいに滅茶苦茶に壊れていく。だからいっそのこと、こうしてしまった方がいいのだ。僕らにとっても、世界にとっても。
手首から際限なく溢れ続ける優しさに抱かれながら、まぶたにのしかかる重みに抗うことなく目を閉じた。

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