私小説の逆襲
私小説は日本独自の分野と言われます。
身近に起こったそのままを小説にする意味がない。それは随想だろう。そうした見解が日本以外で主流だったのです。
なるほど言われてみればその通り。身辺雑記なら、小説の形をとる必要はございません。随想として発表すればよいのです。
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とはいえ、日本独自の分野として成り立つなら理由があるだろう。私なりに考えました。
日本人あるいは日本語にとって、私=大自然つまり宇宙そのものである。だから私小説が成り立つ──私の仮説です。
日本語以外では自他が分離独立しています。古来、日本語には主語がありません。自他は融合しているのです。
独断と偏見
いえいえ。文芸評論家を気取って語るわけではございません。私の知識など大学入試の文学史止まりですから。
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なぜ外国文学に私小説がないか。この疑問を紐解いた論評はあまり目にしません。読んだ限りでは腑に落ちませんでした。
いえいえ。探せばありましょう。一介の塾講師が思いつく着想を研究者諸氏が気づかないはずはございません。
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いずれにせよ私の仮説は変わらないのです。議論を望むわけも発展させるつもりもございません。ただ主張だけなのです。
学術的な証拠など、ございません。論文を逍遙したわけもなく。ただ私の中心から、そのような閃きを得たのです。
風の時代は、このような怪し気な言説が意外と価値を持つ。そう感じるのです。
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そして私は私物語を書いております。
え。これってゲーム小説でしょ。たーしかに確かに。無料部分は一風変わった物語です。
しかし一方、物語の背後には個人的な思いが流れております。有料部分に書きました。
コメントやDMで、心温まるメッセージを頂けて救われる思いが致します。感謝です。
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かつて作家は個人情報を売りました。醜聞もございます。巻き込まれた方が酷く傷ついた話さえ漏れ聞くのです。
私はごく平凡な一般人です。個人情報を大々的に話すつもりはございません。とはいえ、語ってみたい気持ちもあるのです。
この連載開始直前に父が亡くなりました。以前から覚悟しておりましたので、唐突ではございません。心の準備もありました。
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父の挿話を書きたい。息子は私だけ。でも、誰に語ればよいだろう。
母や妹なら改めて読むまでもない。家族ではあまりにも近過ぎるのです。
SNSは自由な発信の場。近過ぎず遠過ぎず、得難い交流が可能と言えましょう。
これこそ、以前から私が提唱して参りましたスモールコミュニティなのです。
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もちろん、物語だけをお読み下さる方にも、感謝の気持ちは変わりません。物語の背後に響く私の思いが伝わるはずなのです。
表面の意識とは別に、心の深い領域で伝わっているでしょう。私はそう信じております。
マスコミの売り物にしたくない。そもそも相手にされません。かといって身近な家族では言い辛いこともある。
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では、何が違うでしょう。小説や物語として書くなら、ありのまま伝えなくてよい。物語的な装飾が許されるのです。
意図的な虚構でなくとも記憶違いや思い込みはあるものです。少し端折った方が伝わり易いこともありましょう。
父についての随想は少し差し障りある。そうした懸念がございました。
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実際、対話形式を使って、これは物語の一環だからと自分に言い聞かせたところ、思いの外すんなり筆が運べたのです。
随想として書いたら、恐らく言えなかったであろうことを語れました。まさか父の話で、涙が溢れるとは思わなかったのです。
これが在り方です。随想と物語に対する私の在り方が変わるに連れ、脳は情報処理を合わせてくれました。
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今回は、私小説か随想かの在り方で書き手は影響を受ける。そのような結論です。