書いた人書かれた文
文は人なり
なーんて言葉もありまして──
どうやら私たちは、書かれた文から書いた人を推し量る傾向があるように感じます。
最近、実際の行動と書いている文が違うなぁという場面に遭遇したものですから。
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素晴らしい文が書けていらっしゃる。なのに実際は素晴らしくない行動を……
とはいえ、素晴らしい文が聖人君子にしか書けないならば、これはこれで不自由かもしれません。どうしたものか。
正解なんてない💦
そこで私は、自分自身と書いた文にどう折り合いをつけているのか、あれこれ振り返ってみました。
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うーん。そうですねぇ。そもそも私が書く文って頭で考えたものではありません。
降りてくるんです🌿
スッと浮かぶ感覚──雰囲気というか。そうした感覚を自分の体験に照らし合わせます。うん。あの出来事がピッタリだな。
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すると亡妻ミドリの声が教えてくれます🌺
─それ違うわよ。もっとね……
─あなた、女心がわかってないわ( ̄▽ ̄;)
たーしかに確かに🗿
家内を亡くして3年ほど経って、詩や小説を書くようになったのです。それまでの私は、ほとんど書けませんでした。
そういえば、女性が書いている作品ではないかとよく間違われたものです。
最近は、あれこれ細かく指示するというよりも、私が岐路に立つ時や表現で迷う折りだけ手助けしてくれる感じでしょうか。
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あるいはまた──
誰かに何か伝えたいことがあると、私はまず意識を使うのです。意識、言葉になる前の感覚といいますか。
見えない聞こえない触れない何かです。ふんわり柔らかな波動とでもいいますか。そんな何かを解き放つのです。
頭の中で言葉にするのはその後。
相手の方が目の前にいるつもりになって語りかけます。時としては、表に出せない厳しい言葉も出たりするのです。
でもスッキリ爽やか💃
ああもういいや。全部、意識の世界で送信しちゃったから。きっと伝わってるさ。
書くのはその後になります。
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読む時も同じです。
本でも記事でも見た瞬間、そういうことかと受け取ってしまう。波動=感覚というか雰囲気というか、そちらが先ですね。
それからじっくり読んだり、時間をおいて読み返したり、そのままスルーしたり、そこらはわりと自由です。
基準は心地よいかどうか💛
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心地よい──
私はいつも、この心地よさという基準を元に書いたり読んだりしているのです。
心地よさは感情と違う🥰
楽しいや嬉しいとは、近いようでありながら遠くに感じます。どのように?
例えば、楽しいや嬉しいの反対はつまらないや悲しいですが、これらは両立しません。
でも、心地よい悲しみは、あり得ると感じているのです。
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ここまで書いて、私なりの考えがやっと纏まってきました。なるほど。私はいつでも心地よくありたいのですね。
そして、私の書く文や人となりもまた、心地よいものとして伝わるなら嬉しく思います。