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【お父ちゃん、教師やめるってよ】
0.はじめに
「お父ちゃん、教師やめるってよ。」
「・・・」
「お父ちゃん、教師やめるってよ!」
「えっ、、、」
「お父ちゃん・・・」
「えぇ!!」
突然の告白でビックリした家族たち。
聞こえちゃいるけど、言葉の理解が追いつかず・・・。
なーんてことは我が家では起こらないと思うのですが、私ことお父ちゃん、この3月末をもって、11年間勤めた教職員をやめる決断を致しました。
ここに至るまでには、いろんな経緯がありました。
そこで今回は、
①このような結論に至った動機
②どのように妻や職場などに報告したか
③これからどうしていくのか
これらのことを述べたいと思います。
今回の記事が、今後、誰かの何らかの参考になればと思い、書かせていただきます。
それでは、しばらくお付き合いくださいませ。(以下、敬体から常体へ)
1.動機
教師になりたいと思ったのはいつ頃だったであろうか。
明確には覚えていないものの、少なくとも、小学校の卒業文集にそれらしきことを書いたのは記憶している。
当時、小学生らしからぬ夢で、「公務員」になりたいです!と書いたのだが、イラストは教師として子どもたちに教えているって感じだったように思う。
そして、中学&高校時代、友人や後輩などに学習や当時所属して頑張っていたソフトテニスを教えることで、やはりこの教えるってことが自分の肌に合っていたことを確かめられた。
その後、大学に入って、アルバイトとして、学習を教えて収入を得たとき、やはりこの仕事が性に合っていると確信した。
しかし、そのときは少し遅めの反抗期真っただ中で、母親の思い通りになるものかと必死に抵抗していたときだった。
私の特性をバッチリ把握していた母が、私には教育系の仕事が向いていると言い続けてきたため、その道には絶対行くものかと反発。
そして、当時、法律を一生懸命学習していたこともあり、その道に進むと決意していたところであった。
その後、紆余曲折を経て、学校事務職員の採用試験を受けて無事受かり、教育事務職として数年働いた。
しかし、教育系以外の仕事に就いたことで、改めて、
「教える仕事がしたい。教師になりたい。」
と心から思えた。
そして、ここから通信課程で教員免許をとり、教員採用試験を受け、無事合格。
30歳にして、ついに小学生からの夢を掴んだ。
その後、日々忙しいながらも順風満帆な教師生活を送っていた。
しかし、転機が突然訪れた。
妻の妊娠である。
ここから、私生活が大きく変わり、今まで残業し放題、やりたいことし放題だった仕事中心生活を一変。
なかなか切り替えが難しかったが、ここで切り替えをしなければ、お父ちゃんとしてやっていけないのではないかと真剣に考えた。
なぜなら、同僚や先輩の中に、自分の担当する子どものことを思って仕事をするがゆえに、それぞれの実の子どもの子育てを犠牲にしてしまったと何度も聞いたので。
自分自身、そうはなりたくなかった。
もちろん、仕事は大事だし、やりたくてやっていることなので、これからも今までと意識としては同じくらい大事にやっていきたい。
しかし、それと同時に、自分の子どものことも考えたい。
そしてその後、日々、お父ちゃん育休や育児をしていく中で、
「自分の子どものために最大限できることを考える。そして、それが今の自分の一番したいこと。」
という価値観に変わった。
よって、自分の優先順位として、「子育て」というのが絶対的1位として存在するようになった。
これが、お父ちゃん育休&育児をした最大の効用である。
ならば、このままこの教師という仕事を続けていてもいいのか。
お父ちゃん育休から復帰したとき、子育てに仕事に家事にと、日々、目まぐるしく時間に追われながら、この一年間、何度も何度もこの命題に対し、立ち止まって考えた。
また、このように考えるようになったのは、お父ちゃん育休だけが理由ではない。
第二の理由としては、コロナだった。
2020年は、一年間通じて、このウィルスに翻弄された一年となってしまった。
もちろん、翻弄されたのは教育現場だけではないのだが、私が勤務している学校現場としては、日々、三密を避けたり、消毒作業をしたりなど、普段の教育活動が制限された上にこのようなことも考えなければならず、激動の一年だった。
そして何より、感染予防を徹底したとしても、感染リスクは客観的に他の職場よりも高いといわざるを得ない。
そのように考えたとき、万が一、自分の幼い子どもたちに自分が感染してうつしてしまったら、と考えることが度々あった。
もちろん、どのような科学的根拠か未だ不明ではあるが、このウィルスは比較的小さい子どもの感染リスクが少ないという報告は私自身、見聞きしている。
しかし、変異株が現在、徐々に増えてきており、その中には、子どもの感染リスクが低くないものも含まれているらしい。
このような状態になってくると、もはやコロナから私自身に対して、働き方改革をせよ!と命じられているかのごとくである。
ここまでのことをまとめると、
①お父ちゃん育休をとって子育てに対する価値観の変化
②コロナウィルス感染予防
これら2つのことから、自分自身の仕事について、変化を求めなければならないと考えるに至った。
また、付け加えると、私自身、現在38歳であり、仕事において何か変化を求めるのであれば、まだ柔軟性がある30代のうちにと思っていたので、その点も考慮した。
動くならまさに今だと。
よって、これらの理由から、一年間悩みに悩んだ結果として、この3月末をもって小学校教師を退職するという決意に至った。
ここで注意して欲しいのは、私にとって、教師という仕事はとても性に合っていたということだ。
確かに、世間的に言われるように労働環境としては、ブラック企業並みというのは分からなくはないが、決してそのような理由から教師をやめるのではないとだけ付言しておく。
よって、これから教師を目指す方々が目の前におられたら、私としては、全力でサポートしていきたいと思っている。
ただ、私は上記の理由から、現場を去っていくに過ぎない。
こうして、3月末になり、11年間勤めた公立学校教職員としての仕事人生に、静かに幕を下ろした。
2.家族や職場への報告
まず、妻についてである。
これは、お父ちゃん育休のときにも伝えたが、最優先事項である。
妻の理解が得られずして、仕事をやめるってことになれば、その先はなかなか夫婦にとって辛いものにしかならない可能性が高い。
では、私自身どのように報告したか。
それは、ちょうど、2021年の年明けくらいだったように思う。
職場に報告するのを決めた上で妻に相談した。
子どもたちと添い寝をして寝かしつけた後、妻と二人で今後の相談ということで切り出した。
①今の仕事について思っていること。
②そして、これからどのようにしたいかということ。
主には、この2点について、自分の思いを詳しく説明したように思う。
幸い、我が家は妻も一般企業に正社員として働いており、一応、散財せずにある程度の貯金があったので、その点は計画的だった。
私の話を聞いて、妻の答えとしては、
「分かった。ただ、保育園について少し心配ごとがある。」
ということだった。
これについては、当時2歳の娘が2021年4月から5歳の息子と同じ保育園に転園する予定になっていたのだが、私の勤務形態が変わる関係で、転園に何かしらの影響が出るかもということだった。
結論から言うと、居住地域の市役所の保育入所課に問い合わせたところ、大丈夫ということだった。
なので、娘がこの4月から無事、息子と同じ保育園に行くことができる。
よって、妻の理解も、無事得られた。
次に、職場への報告である。
これについては、人事のことなので、自分の決意が決まれば早々に管理職に伝える必要があった。
そして、具体的には、妻へ伝えた次の日、すなわち2021年の仕事始めの日に管理職にさっそく伝えた。
結論から言うと、こちらも理解が得られた。
ただ、話の中で、やはり今後のことが心配、特に金銭面がということであった。
それはそうである。
小さい子を抱えたお父ちゃんが安定した仕事をやめるということなので。
聞いていてとても温かみのある言葉だったので、正直、後ろ髪を引かれる思いではあったが、自分としては、一年間じっくりと考えたことだったので、ありがたい気持ちとして受け取ることにさせていただいた。
そして、同僚については、3月に入って突然の告白だったこともあり、口々に驚かれた。
そう、ただただ驚かれたというのが正直なところだった。
そのような中でも、次の仕事も頑張ってくださいと言ってくれる方もいて、心からありがたかった。
3.これから
では、これからどのように生きていくのか。
すなわち、どのような仕事をするのか、についてである。
これについては、前提として、私としては少なくとも、自分の子どもが小学校卒業くらいまでは、最大限、育児や子育ての時間を確保したいと考えている。
なぜなら、それが私のしたいことで、かつ、そのための働き方改革だから。
よって、時間に融通が利きやすい仕事ということが大前提である。
その結果、現在、私としては、三足の草鞋を履こうと考えている。
具体的には、
①オンライン家庭教師
②文筆業
③行政書士
として、働こうと考えている。
①②については、すでに動き出していて、③については、もう少し落ち着いてから、開業準備をしていこうと考えている。
では、以下それぞれ少し詳しく述べる。
①オンライン家庭教師
この仕事は、コロナ禍であるまさに今、時代の潮流となっている仕事だと考える。
私自身、オンライン英会話を5年ほど、5歳の息子も半年以上継続的に受講しているが、自宅でパソコンやスマホ一台でできるものであり、とても手軽である。
さらに、時間もあまり制約がない。
移動の時間も必要がないので、非常に効率的である。
また、経費がほとんど必要ないということも大きい。
必要最小限の経費としては、パソコンと書画カメラくらいのものである。
そして何より、コロナの感染リスクが0である。
私自身、教える仕事がとても好きなので、これからは小学生だけでなく、中学生、高校生に英語や数学、あるいは、大学生や社会人に英語や法律なども教えられたらと思っている。
さらに、これは個人的にであるが、育休をとろうと検討しているお父ちゃん、子育て世代のお母さんに対しても何らかのコンサルティング業ができればとも思っている。
私自身のお父ちゃん育休&育児の経験や小学校教師(特別支援学級担任も含む)としての知識や経験が少しは役に立てられるのではと考えている。
このご時世なので、特にオンライン家庭教師の需要は大きいと各業者の方から聞いているので、時間の許す限り、誠意をもって仕事に取り組みたい。
②文筆業
2019年4月から毎日Facebook投稿をしていて、情報発信の楽しさに気づいた。
毎日投稿していると、何かしらの反応があり、自分の投稿が、誰かの何かの役に立っているのがとても実感できた。
そして、習慣化したからか、投稿自体が現在に至ってはほとんど苦ではなくなった。
むしろ、次は何を投稿しようかとわくわくする気持ちの方が大きい。
2020年12月からはnoteも始めた。
ここでふと思った。
もしかすると、自分の情報に価値を見出してくれて、自分の記事を買ってくれる方がいるのではないか、と。
ここから、この3カ月間、記事の書き方、マーケティング、ひとり起業の仕方などの本を読み漁った。
今まで、身分や収入が安定している公務員として働いていたこともあり、この手の知識はほとんどなかったので、とても日々新鮮であった。
毎日忙しいながらも、とても楽しかった。
そうして、noteを始めて3カ月で一つの目標である月間10000PVを達成することもできた。
毎日投稿していれば、誠意をもって記事を書いていれば、これだけの方に見てもらえていると実感できた瞬間であった。
よって、これからも、無料の記事を書き続けるのはもちろん、有料だからこそ書ける記事というのもあるので、そこに挑戦したい。
そして、その際には、お金をいただくことになるので、プロ意識をもって記事を書いていきたいと思う。
ただ、根っこの部分は無料であろうが有料であろうが同じである。
自分の知識や経験が、誰かの何かの役に立てれば!という思い。
この思いを胸にこれから文筆業に取り組んでいきたい。
③行政書士
これについては、私自身が取り組みたい分野がある。
それは、ずばり、「成年後見」である。
それも、とりわけ、「障がいを持った方々を対象とした成年後見」である。
このように考えた理由は、これまで私自身、小学校教師として、特別支援学級の子どもたちと何年も過ごしてきて、この子たちの「その先」をも支援できればという思いに至ったからである。
すなわち、「親亡き後」の問題についても積極的に取り組みたいと考える。
ただ、この分野は、福祉的要素が大きく、正直、報酬は二の次というところもあるので、今のところ、現実的には、ある程度、①②で生計が立てられるようになってからという認識である。
しかし、私にとって、やりがいがとてもある分野なので、是非取り組んでいきたいと考える。
これら①~③に加えて、現在、株式投資で資産運用もしているので、ここからも利益が生まれるように取り組んでいきたい。
これまでと違って、時間に融通の利かせられる仕事なので、積極的に株式投資もしていこうと考えている。
4.まとめ
(常体から敬体へ)
「お父ちゃん、教師やめるってよ。」
「う、うん。」
「お父ちゃん、これからは家にいるってよ。」
「うん。」
「お父ちゃん、これからは・・・」
「分かった!」
我が子にはまだ小さいので、このことは伝えてはいないのですが、ゆくゆくは私から伝えようと考えています。
①今までは、小学校教師として働いていたこと。
②でも、いろいろ考えて、今は家でできる仕事をしていること。
③そして、子どもたちを愛していること。(なかなか恥ずかしいので、大好き!という言葉に置き換えると思いますが…。)
これら3つのことを少しずつ伝えていきたいと思います。
上記のようなやりとりになるかは不明ですが、少なくとも、子どもたちが理解できるように、誠意をもって伝えていきたいと思います。
最後に、私自身の父親について少しお話させていただきます。
もうすぐ定年という59歳の若さで病気で亡くなってしまった父親。
以前は大企業に勤めており、そこで、課長として、精神的にタフな仕事をたくさんこなしていたと亡くなる間際に知りました。
父はあまり会社のことを家庭では言わず、飄々として生きてきたように思います。
仕事人間でしたが、それでも休みの日は、親子水入らずで、公園でキャッチボールをしたり、車でドライブに連れて行ってもらったり、晩年には、一緒にテニスをしたこともたくさんありました。
早くに亡くなってしまったからもあるのですが、父との思い出は、私にとっては、この上ない宝物です。
陳腐な言葉かもしれませんが、本当にプライスレスなものです。
ならば、この経験やこの気持ちを是非、自分の子どもにも存分に味わってほしいと考えるに至りました。
どこまでできるか分かりません。
分かりませんが、分からないからこそ、楽しみ。
これからの人生、妻と、そして我が子に寄り添いながら、楽しく過ごしてまいります。
これからまた新しい人生を歩むことになりますが、引き続き、よろしくお願い致します。
ペンネーム さいやん