なぜ「その物語は何かを隠蔽している」と考えるのか&「隠蔽するための物語」作品まとめ

◆「隠蔽するための物語」とは何なのか。

 先日、コミックDAYSに掲載された「天を夢見て」を読んで、「これは『隠蔽するための物語』ではないか」と思った。

「隠蔽するための物語」とは何か。

 ピエール・マシュレーは、イデオロギーを解釈するためにつぎのような定式を提供している。
「ある作品において重要なのは、それが言っていないことがらである。これはしばしば不用意にそう表示されているような『それが言うことを拒絶していることがら』とは同じものではない。(略)
これよりもむしろ、作品が言うことをできなことがらのほうが重要である」

(「サバルタンは語ることができるか」G・C・スピヴァク/上村忠男訳 p47-48/太字は引用者)

「言わない」ことで効果を狙っているわけではなく、「言えないこと」がある。その「言えないこと」を隠すために作品が存在している。
「言えない内容そのもの」と「『言えない(語れない)』という事実」を同時に隠しているため、表面上は筋が通ったストーリーに見える。

 なぜ表層では語られていないのに、「言えずにいる」とわかるのか。

 創作を読んで(見て)いると、「このことを語ることが出来ないのではないか」という不自然なポイントを発見することがある。
キャラクターでも作品でもそういう場合がある。自分も、創作においてはこの語ることができない事柄(あえて語らないではなく)はかなり重要なのではないか、と思っている。

「不自然だ」と感じるポイントがあるからだ。
 そのポイントを自然な見方に修正したほうが話の辻褄が合う時に「隠蔽するための物語」である可能性を考える。
「天を夢見て」を題材に、具体的にどの点をどう考えて「隠蔽するための物語ではないか」と思ったかを書いてみたい。


◆「天を夢見て」を、なぜ「隠蔽するための物語」だと思ったか。

「天を夢見て」で最初に引っかかったのは、三十歳の成人した男の生き方に、妹のラミと赤の他人のガブリエが干渉しすぎるところだ。
「二人がそういう性格である」にしても、そのことを「おかしい」と考える視点が物語内に一切ない。当の本人であるライアンも、ガブリエの過干渉やラミの過保護を突っ込まず受け入れている。

 さらに読んでいて、「天使と悪魔の設定の重要さ」に表面上とキャラの深層で乖離があるところに引っかかった。
「悪魔と天使が絶対的な善悪で分かれており、悪魔に味方をすることは『人として』(社会規範・倫理的に)ありえない」

(引用元:「天を夢見て」大雪晟 講談社)

 この社会規範がラミに機能していない。 
 ラミは、ライアンが悪魔に寝返ったこと自体には何も言わず「ライアンが自分の手を振り払って家を出て行くこと」にのみ衝撃を受けている。
「天使と悪魔の設定(社会倫理)」にまったく触れず、ただ「私を嫌いにならないで」と言う。
 ガブリエもライアンを説得するにあたって、「社会倫理的な面」からはほとんど説得していない。ライアンの個人的な事情にばかり言及している。(ラミとガブリエは、ライアンに干渉することにしか興味がないように見える)
 ラミもガブリエも深層下では「ライアンが悪魔につくこと」自体を倫理的にどうこう思っていない。彼らにとって重要なのはライアンが「出て行ってしまうこと」だ。

(引用元:「天を夢見て」大雪晟 講談社)

「自分の人生を生きる」ということは誰もが当たり前の権利として追求していいことのはずなのに「天を夢見て」ではそれが「悪」として描かれている。
 
ラミとガブリエがライアンの内面にまで干渉して、ライアンが自分の人生を生きることを阻害している。
 その構図を、あたかもライアンが「してはならないことをしている」と錯覚させるために(読者の感じ方を誘導するために)「悪魔と天使が絶対的に対立している世界観」「ライアンに天使になる能力がない設定」が付与されている。

 自分が最初に読んだ時に感じた「自己実現と善(倫理)とどちらを取るべきか」というテーマも、よく読めばそうではないことがわかる。
 上記に書いたように「天使側が絶対善であるという規範や倫理」は、ライアンだけではなくラミやガブリエの中でも機能していない(影響を与えていない)からだ。悪魔側も絶対悪として描かれておらず、言い分としては絶滅に瀕しているための正当防衛に近い。
 善悪が相対的な世界で、自分の選択をすると全力で人格攻撃される。
 だからこれまで家から(外へ)出られなかった。

「天を夢見て」の元型は「お前には何の能力もない」と思わせようとし家から出そうとしないラミとガブリエの手を離れ、何とか外に出ようとするライアンの話なのだ。
 この話で最も重要なのはこの構図なのに、それが最後まで隠されている。

 自分がこの話が好きではない点は、誘導の仕方が強引すぎるところだ。
 ライアンは確かに勝手だが、自分から見ればラミもガブリエも大して違いはない。ガブリエの態度は「そりゃお前、刺されもするよ」としか思えない。
 そういう違和感から色々考えてみた末、この話は「ラミとガブリエがライアンを、外の世界(社会)に出さないために抑圧している(少なくともライアンにとってはそうである)」という元の話を隠すための「隠蔽するための物語」ではないかと思い至った。

(引用元:「天を夢見て」大雪晟 講談社)

 スッキリした。


◆「隠蔽するための物語」リスト

 物語の元型の中で隠したい要素を隠しているため、装飾された表層のストーリーに不自然な箇所が生じる。「隠すこと」が目的であるために、物語においては最後まで隠蔽されたままである。
 これが自分が考える「隠蔽するための物語」である。

「信頼のできない語り手」との違いは、「物語上の効果を狙っている手法ではない」ところだ。
 創作を面白くするための手段ではなく、他の理由でこうなっている(と考えるしかない)
 自分は「隠蔽するための物語」が大好きなので、今後も愛好家として該当作品を探して収集していこうと思う。

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