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「鬼滅の刃」の序盤は、なぜ面白くないのか。

※「私(俺)は最初から凄く面白かったが、それはそれとして自分とは違う感想を聞いてもいい」という人のみお読みください。


◆最初に読んだ時、二巻で読むのをやめている。

 今だから告白するが、自分は「鬼滅の刃」を初めて読んだ時、二巻までで読むのを止めている。
「つまらなくはないけれどそこまで面白くないな」と思ったのだ。
 多少なりとも「これは面白いかも」と思い出したのは柱が出てきてからだ。「えっ、凄く面白くないか」と思いだしたのは遊郭編からである。そこからは右肩上がりの面白さだ。
 なぜ自分は序盤を余り面白いと感じないのか。
 柱が登場して一気にキャラが増えたからか。
 耀哉が出てきて話の全体像が見えてきたからか。
 単純に好みのキャラが出てきたからではないか。
など理由は色々思いつく。
 だがここにあげた理由は「柱が出てきてから面白く感じる理由」にはなっても「(中盤・終盤との比較ではなく)それ以前の序盤がなぜ面白く感じないか」の理由にはなっていない。

 これは何故かなと昨日、電車に長時間乗る中で考えていたところ(※1)突然閃いた。
 序盤を面白く感じないのは対立構造がないからではないか。
 いや、何言っているんだ。
 主人公である炭治郎は鬼に家族を殺され、唯一の肉親である禰豆子も鬼になってしまった。「人間対鬼」という対立構図があるではないか。
とも考えたが、実はよく考えるとこれが対立構図にはなっていない。
 何故、そう思うのか。
 また、では「なぜ柱が出てきてからは面白く感じるのか」
 この二点を説明したい。


◆前提:自分は「鬼滅の刃」はこういう話だと思っている。

「自分が『鬼滅の刃』という話をどう考えているか」
 この記事の書くにあたっての前提として、必要な部分を簡単に羅列しておきたい(「なぜそう考えるのか」については過去記事に書いたので、興味がある人は読んでもらえると嬉しい)

①鬼と人間は本来(作外現実)では同じものであり、作内描写(物語的装飾)で分けられているに過ぎない。
 本来は同じものだからこそ「鬼と人間は違う」という幻想を守らなければならない。「鬼滅の刃」は「鬼と人間は違う」という幻想のために存在している物語である。

「鬼滅の刃」という話は「鬼」という存在がなくとも十分成り立つ。
話が成り立ってしまうことが絶望であり、表層的なストーリーはその絶望の上に成立している。

②「鬼と人間は違う」という物語の最も大きな原理に、「兄能力」を持つものだけは逆らえる(兄は弟妹が鬼になっても、変わらず弟妹として認識することができる)→「鬼滅の刃」における最も強力な理(ルール)は「長男が持つ兄能力」である。

 ↑の記事で書いた通り、継国兄弟は本来は縁壱が兄であり巌勝が弟である。
 だが弟である巌勝の「この国で一番の侍(兄)になりたい」という望みをかなえるために、縁壱は兄能力を使って理を狂わせ自分が弟(二番目)になったのだ。
 巌勝が「狂っている」と感じている理は、本来弟であるはずの自分が兄になっていることだ。


◆鬼は「太陽=日の呼吸の継承者である兄」には決して勝てない。

 無惨は人間に勝てない。無惨は太陽(日の呼吸)には決して勝てないからだ。
 しかし人間には寿命があるから、縁壱以外の日の呼吸の使い手が現れても寿命を待てばいい。
 無惨は耀哉と直接対峙するまではそう考えていた。
 だが

(「鬼滅の刃」16巻 吾峠呼世晴 集英社)
作中一、怖いシーン。

この台詞を見るとわかる通り、人間は鬼と違って個人単位では戦わない。世代を超えて思いでつながり、永遠という大きな概念となって戦う。
 だから縁壱が死んでも太陽(日の呼吸)は炭治郎に受け継がれ、結局無惨は滅ぼされている。
「人間を人間という個体のみ」で捉えてはいけなかったのだ。
 そうラストバトル前に当の敵が懇切丁寧に説明してくれているのに、

(「鬼滅の刃」21巻 吾峠呼世晴 集英社)

まだこんなことを言っているので、そりゃ負けるだろと思ってしまう(ほんと「成長」「変化」が嫌いだな)

 日の呼吸の使い手である炭治郎は、「鬼滅の刃」における最強の存在である太陽と同義である。
 だが序盤の時点では「日の呼吸」が使えないから(そもそも存在を知らないから)「最強のキャラ」とは言えないのでは?と感じる。
 だが違う。
「鬼と人間は違う」という物語の前提となる理に、唯一縛られることがない「鬼になった弟妹を家族として守ることができる兄能力」を持つ者。
 日の呼吸はこの「兄能力を持つこと」の証明に過ぎないからだ。
 これは不死川が鬼になった母親を殺してしまったこと、鬼になった珠代が夫と子供を食い殺してしまったことと比べるとわかりやすい。
「鬼と人間が違う」「鬼と人間は決して相容れることがない」ことが前提となっている物語において、鬼になってしまった弟妹を愛せる兄能力を持つから炭治郎は(縁壱も)最強のキャラなのだ。
 つまり炭治郎は(縁壱も)日の呼吸の使い手だから最強キャラなのではない。「鬼と人間は相容れない」という理を乗り越えられる兄だから最強キャラなのであり、最強キャラだから日の呼吸が使える(太陽な)のだ(※2)

 鬼化した禰豆子を妹として愛して守り、一緒にいられる。これができる時点で、炭治郎は第一話から「鬼と人間」という対立軸(物語の原理)の上位に存在する最強のキャラなのだ
「鬼と人間」という対立軸の上位に存在しているのだから、炭治郎は鬼化する可能性を持たない(※3)ゆえに対立軸は存在しない(二回言う)
 自分が「鬼滅の刃」の序盤が余り面白く感じない理由は(たぶん)これである。
 完全にただの好みだが、自分は基本的に「人と人が対立する話(そこに焦点が当たっている話)」のほうが好きである。人同士ではなく、大きな謎や脅威でもいいが、要は同じくらいの強さの対立する思想や信条や感情や思考や世界観がぶつかる話が好きなのだ(※4)
 ここまで考えて、「ああだから、自分は序盤は面白く感じないのか」と納得がいった。
 では次の疑問である。
「なぜ、柱が出てきた途端面白くなったのか」


◆柱は鬼化する可能性を持つ人物が多い。

 鬼が本来は人の悪性を表すものだとしたら、炭治郎や縁壱は人間に対してはほぼそれを持たない。鬼(自己の悪性)に対しては怒りを示しても、例えば縁壱は自分を不当に冷遇する父親にも自分を追放した仲間にもまったく負の感情を表さない。
 炭治郎も相手がどんなに不当な態度をとっても、不機嫌さすら表さない。炭治郎は逆に、年上で目上の人間であるはずの冨岡や悲鳴嶋、不死川の悲しみや葛藤や怒りを受けとめたり受け流す描写が多い。
 自己の悪性(負の感情)を自己の内部で処理できる人間なのだ。

 それに対して柱はそうではない。
 小さいところでいえば、不死川や伊黒の冨岡への態度がある。不機嫌さや好悪、怒りなどを仲間に対してさえ持つ。
 これは不死川や伊黒が未熟で駄目な人間、悪性が強いというわけではない。本来こういった負の感情、負の側面を持つのは人間であれば当たり前である。
 冨岡は錆兎や蔦子の代わりに生き残ってしまったという負い目から自分を水柱と認めることができない、不死川は母親を殺した負い目から弟の玄弥にキツい態度しかとれない、悲鳴嶋は子供たちが自分を裏切ったと思い込み強い悲しみを抱えている、伊黒は生い立ちから自分が穢れたものだと思い込んでいる。蜜璃は自分の体質や容貌にコンプレックスを持っている、宇髄は忍として多くの人の命を奪っており、その罪を清算しなければ人として生きていけないと考えている。

(「鬼滅の刃」11巻 吾峠呼世晴 集英社)
(「鬼滅の刃」11巻 吾峠呼世晴 集英社)
※「(普通の)人間として」「陽の下を生きていけない」という表現を見るとわかるが、柱においては「鬼になるか人として生きるか」の差は紙一重である。

 柱ではないが、カナヲは虐待された経験から親しい人が死んでも泣くことができず、そんな自分に罪悪感を持っている。
 こういう誰もが持つ、負い目や罪悪感や悲しみや痛みといった当たり前の感情が昇華できず行き場を失くした時に人は鬼になる
 こういう感情を持つ人間は、「鬼化の可能性」を常に持つことになり自己の内部の「鬼化の可能性」と戦い続けて生きていくことになる。

 煉獄は若干特殊なケースで自分の負の感情の投影先を持っている。父親の槇寿郎である。
 煉獄以外でも自己の負の感情の投影先を持っているために、自分自身は鬼化の可能性を持たない人物がもう一人いる。善逸である。
 善逸は獪岳に自己の鬼化の可能性を預け、最終的に戦って打ち破ったために作内では鬼化の可能性を持たない。
 では、父親の槇寿郎と作内では対峙しなかった煉獄はどうか。
 槇寿郎が復帰したのは、息子である煉獄が死んだためである。「善逸ー獪岳」のケースとは逆に、煉獄の善性(人間性)が槇寿郎の内部の鬼化の可能性を消滅させたのだ。

というように柱(&カナヲ)は炭治郎とは違い、自己の内部に鬼化の可能性を持ち、その可能性と常に戦い続けている。
 この戦いは拮抗しており、どちらに転ぶかわからない。
 こういう対立構図が柱が出てくることで物語に加わったために、(少なくとも自分にとっては)急に面白くなった。
 これが自分の中では、自分の感覚に一番フィットする理由である。スッキリした。

 これだけ考えても、考えるたびに「ああっ!」と新たな発見がある。
「鬼滅の刃」はやはり凄い漫画である。


※1 暇さえあればこんなことばかり考えている。

※2 なぜ鬼の中で禰豆子だけが太陽を克服できる可能性を持ったのか。鬼になっても兄である炭治郎(太陽)とずっと一緒にいた(いられた)というのが作内の既成事実だからだ。

※3 ラスト近くで、無惨が「『思いこそが永遠』という耀哉の言ったことが正しかった」と認めた後に、

(「鬼滅の刃」23巻 吾峠呼世晴 集英社)

「鬼と人間」という対立軸の上位にいるはずの炭治郎が無惨と同化して鬼化しそうになる。
これは何故か。
「鬼と人間は違う」という物語の前提であり原理を、無惨が「人間と鬼は同じものだ」と気付いたために物語の枠組み(幻想)を壊すことが可能になったからだ。物語の装飾によって隠されていた「鬼は人間と同じ→人間の悪性である(炭治郎=人間の中に、無惨=鬼が存在することがありうる)」という現実の理を、無惨が奥の手として呼び覚ましたのだ
 鬼化した炭治郎が妄想の中で無惨と会話するシーンは、「人間と鬼」「人間の善性と悪性」の対話である。

※4 もしくは人間のほうが圧倒される話も好き。ホラーに多い。

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苦虫うさる
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