「推し」という概念の危うさが、やっとわかった(気がする)
今まで「推し」という概念がピンときていなかった。(余り考えず使っていた)
この漫画でようやく「推し」という概念が「こういうものか?」と理解できた(ような気がした)
ファンビジネス自体は昔からあったが、ここまで問題になっていなかった。SNSなどの普及で可視化されただけか、というと(それもあるだろうけれど)それだけでもない気がする。
「『ファン』との違いは何か」
「なぜ、恋愛や宗教に例えられやすいのか」
「どういうところが危険なのか」
などが腑に落ちたので、その考えを整理したい。
「推し」という言葉は意味が幅広い。
「ファン」の言い換え程度に使う人や、生活に支障のない範囲で楽しむことも「推し」と表現している人もいると思う。
今回考えたのはそういう人ではなく、「生活を破綻させるほど、赤の他人への支援にのめりこんでしまう人」「相手が自分の想定していない言動をとると、裏切られたという心境になってしまう人」が用いる「推し」という概念についてだ。
「推し」とは、根本に「自己同一性」がある概念ではないか。
「私は〇〇のファンです」
「私の推しは〇〇です」
「私」という枠組みがとこまでを含むか(相手と相対するか、相手を包摂するか)が「推し」と「ファン」の違いではないか。(↑に書いた通り、「推し」という言葉が生まれる以前も「ファン」の中に「推し」の概念が含まれていたとは思うが)
ファンになればその対象に時間や金銭などを費す。だが、それはあくまで「現実にいる自分がメイン(主体)であり、その生活を豊かにするために」消費する。
「推し」は自分との境目が曖昧だから、対象の成功(輝き)によって自己実現するように錯覚してしまう。
現実の自分の生活を崩壊させるほどのめり込んでしまうのは、「現実の自分が空っぽ(の器)」だと感じているために「自己(主体)」を対象に預けてしまうためではないか。
対象に「自分」を移設しているから、空っぽの器である現実の自分はいくら壊れても構わない。
属性や思想などの概念、架空の人物(キャラ)ならまだしも、「実在する赤の他人を自分の認識のみで理解して自己同一性を求める」という発想は怖い。
「相手の個人的な文脈を無視して自分の認識のみで相手を解釈する」のは「実在の人間を、自分にとって都合がいい概念として扱う」ことになる。
「自分はあなたとは違う人間だから、あなたのことはわからない」
こういう前提で他人と相対することが相手を尊重することだと思っている自分からすると、「いくつかの構成要素を知っただけで相手のことを(ひとつの言動ではなく全人的に)わかると思い、自己を密着させる」という発想は怖いと感じる。
↑は「グイン・サーガ」の登場人物であるイシュトヴァーンのセリフだ。
「俺の夢を自分の夢とすること」と「おれをてめえの夢のかわりにすること」は(結果的に)一緒では、と思っていた。
そのためこのセリフの意味がずっとわからなかった。
でも「推し」はこういう概念ではないかと腑に落ちた時に、やっとイシュトヴァーンが何に怒っているかわかった。
「俺の夢は俺だけのものだ」
「俺とお前は別の人間だ」
「『俺』という領域に入ってくるな」
このシーンのイシュトヴァーンは、まさに「俺を『自分の推し』にするのではなく、俺のファンでいろ」と言っているのだ。
「グイン・サーガ」は、イシュトヴァーンに限らず「カリスマがある登場人物が、『尊敬』や『崇拝』や『賛美』という名目で自分の領域に侵入されることに怒りや嫌悪を表す描写」が多い。
それが例え「善意」「尊敬」「崇拝」「賛美」「支援」という感情であっても、「自分の認識のみで相手の『存在そのもの』を解釈すること」「自分と相手の境目を曖昧にし、相手の領域を侵入すること」は失礼だし、怖いことだ。
ナリスも「ナリス聖王陛下万歳」と言われて無茶苦茶キレていたが、こちらのほうが「おれをてめえの好きにあやつれる人形にしている」例示としてわかりやすい。
自分はそういうことをされた経験がないので、どういうことなのかよくわかっていなかった。
確かにそんなことをされたら……↑のようにわめきたくなるな。
他人を自分の好みの入れ物にしてその中に潜り込もうとするのはしてはいけないことだし(↑のようにキレられても仕方ない)、中にはそういう願望を逆手に取って利用しようとする人間もいる。
「推し活」がそういう危うさと隣り合わせなことは、広まったほうがいいのかもなと思った。
ちなみに冒頭にあげた「遠い日の陽」は、
36歳の千比呂さんと友人(他人)になって終わるので、とてもいい話だと思った。
*続いた。