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髙橋ツトム「ブルーヘヴン」が凄く好きなのは、自分にとってコミュニケーションの話だからだ。

※本記事には高橋ツトム「ブルーヘヴン」のネタバレがあります。

 連載していた時凄く好きだったので、超久しぶりに読んでみた。

 一読しただけだと、この話の何にこんなに引き込まれるのか、なぜこの話がそんなに好きなのか、自分でもよくわからない。
 パニックサスペンスは好きだが、「ブルーヘヴン」は展開が早すぎて、サスペンス要素を味わう暇がない。パニック部分も「タイタニック」のように力を入れて描かれているわけでもない。
 サクサク人が死んでいって、アッという間に殺し合いが始まって、アッという間にパニックになって、アッという間に船が沈んで終わる。
 ぼんやり読むと「結局何だったんだ?」で終わってしまいそうだ。

 でも読むと凄く面白い。
 何でこんなに面白く感じているんだろう、と考えて思い至った。
 自分はこの話を盛龍の視点で読んでいるのだ。
 
「ブルーヘヴン」は佐野や夏川の視点がメインであり、漂流者として拾われた殺人鬼・李盛龍は「突然降りかかった理不尽な災厄」という文脈でしか描かれていない。
 盛龍は自分が生きのびるためなら、躊躇いなく何百人でも人を殺す人間で、人道的措置として盛龍を助けたせいで船は凄惨な殺し合いの場になる。 

 だが佐野や夏川など周りの人間が誤解(?)しているのは、盛龍が考える「生きる」は「生存する」という意味ではない。
「社会(他人)の中で生きたい」という意味なのだ。

(引用元:「ブルーヘヴン」高橋ツトム 集英社)

 盛龍は11歳の時から、10年間閉じ込められて生きてきた。だから社会のころはおろか、他人のことはほとんどわからない。
 テレビで学んだ知識は、「世界は死体ばかりある」「話し合いは無意味であり、人は最終的に必ず殺し合う」ということだけだ。
 そして殺人の訓練を受け、外の世界に放り出される。
 情緒やコミュニケーション能力は育っておらず、与えられた技術は人を殺すことだけだ。
 そういう人間が社会の輪の中に入ろうと努力するとどうなるか。

 盛龍は捕まったら、また閉じ込められることはわかっている。だから自分の顔を見た人間は殺す。
 しかし助けてくれた恩義を感じている佐野や気に入った夏川は殺さない。

(引用元:「ブルーヘヴン」高橋ツトム 集英社)

 このシーンも「殺人は決してしてはいけない」という倫理の中で生きている人間にとっては、盛龍は非人間的にしか見えない。
 だが盛龍は、例えばガルフのようにその倫理がわかっていながら踏みにじっているわけではない。その倫理(規範)の存在自体を知らない。
 だから素で「自分はこう考えたのだがいけなかったのか?」と聞いている。

(引用元:「ブルーヘヴン」高橋ツトム 集英社)

 またシンディの部屋で佐野と鉢合わせした時に、わざわざ佐野に声をかけている。この後、盛龍自身が佐野に言うように、殺すつもりならば声をかけずに殺せばいい。
 盛龍はこの時、心の底から佐野に礼を言った。「話し合えば通ずるかもしれない」という法則の可能性を信じていたためだ。
 だが佐野はその礼を受け入れることなく(当たり前だが)恐怖の表情を浮かべて銃を向けてきた。
 この時の盛龍はひどく傷ついた顔をしている。
 盛龍はこの時に限らず、表情が豊かだ。

(引用元:「ブルーヘヴン」高橋ツトム 集英社)

 新婚旅行でブルーヘヴンに乗り込んだ男が撃たれた時はショックを受けたような表情をしているが、

(引用元:「ブルーヘヴン」高橋ツトム 集英社)

男を撃ち殺したガルフの息子を殺す時は、ひどく楽しそうな顔をしている。

「ブルーヘヴン」という物語の中では、盛龍の状態は一般的な感覚(社会規範を与えられた人間の感覚)でわかるようには描写されていない。
 だからその規範の輪の中で生きている佐野や夏川にとっては、意味がわからない化け物にしか見えない(というより実際に化け物である)
 でもよく読むと、盛龍には盛龍なりに感情の機微があり社会の中で生きる術を学ぼうとしている。

(引用元:「ブルーヘヴン」高橋ツトム 集英社)

 ただその振る舞いが余りに頓珍漢すぎて、他人にとっては大迷惑以上の災厄になってしまう
「葬送のフリーレン」のマハトと同じだが、マハトと違うのは盛龍は魔族(怪物)ではなく人間であるところだ。
 
マハトが好奇心のためにやっていたことを、盛龍は生きるためにやらなければいけない。
 またマハトは、運良く(?)グリュックに出会えた。グリュックはマハトを利用するために、マハトを理解し、人間のことを学ばせてくれた。
 だが盛龍が出会い教えを乞うた夏川は、盛龍とのコミュニケーションを拒否し「知りたいことがあるなら、人に聞かずに自分で見つけなさい」と突き放す。

 盛龍はこのあと、佐野との約束があるのにも関わらず、夏川を撃つ。
 盛龍→夏川の感情は、コンテクストがすべて消されているので一読するだけだとよくわからない。だが、よく読むと盛龍は夏川だけは最後まで殺そうとしない、夏川を助けるために佐野を殺そうとする、コミュニケーションを取ろうと何度も試みている、船旅記を書くと約束したことにこだわっているなど、そうとう入れ込んでいることがわかる。

 十年間、閉じ込められて生きてきた盛龍は、外の世界(社会)を知り、そこで生きたいと願っていた。
 盛龍なりに一生懸命、苦手なコミュニケーションを取ろうとし、助けてくれた相手は殺さず礼を言い、気に入った相手には心を開いて「外のことを教えて欲しい」と頼み続けた。

(引用元:「ブルーヘヴン」高橋ツトム 集英社)
(引用元:「ブルーヘヴン」高橋ツトム 集英社)

 誰かわからないから銃を突きつけたら、夏川だったので「行けなくてごめん」と言ったら「ふざけんな」と言われいきなりひっぱたかれる。
 殺人鬼にこういう毅然とした態度を取れるなっちゃんが大好きだが、盛龍視点で見るとそうとう理不尽で訳がわからないことだったんだろうなと思う。
 人を殺す時にはむしろ生き生きとした笑顔になる盛龍が、夏川に叩かれたり佐野に拒絶された時は、凄く怖い顔になる。
 これは怒っているというより、ショックなんだろうと思った。
 だが盛龍はこういう理不尽な(あくまで盛龍の視点で見ればだが)態度を取られても、夏川のことは生かそうとする。
 極めつけが、盛龍は夏川を助けるために命を落としている。これは夏川に「あなた、ワタシのために死ねないでしょ?」と言われたためだ。
 それが「好き」の証明だと言われたから、その通りにしたのだ。(物語の展開的にはまったくそう見えないが)

(引用元:「ブルーヘヴン」高橋ツトム 集英社)

 盛龍は夏川と話す時はぎこちないのに、殺し合いの場面になると生き生きし出す。
 殺し合いは盛龍がこの世で唯一うまく出来ることであり、さらに言うなら最も得意なコミュニケーションの方法だからだ。

 ↑の記事で「会話を広げる努力をすること」はとても簡単なことだから全人類やるべきだ、と言っている増田に言及した。
 極論を言えば、盛龍みたいな人間が「会話を広げる努力」が出来ると思うか? という話なのだ。
「ブルーヘヴン」はお話だが、それくらいコミュニケーション能力には差があるし、もっと言うと「コミュニケーション」とは何なのかという考えにも差がある。

(引用元:「ブルーヘヴン」高橋ツトム 集英社)

 盛龍にとっては殺し合いが唯一できるコミュニケーション(人との関わり)であり、こうやって生きたほうがずっと楽だ。
 でも人と関わるためにはそれでは駄目だ、と思うから苦手なことを必死でやろうとする。だがそもそも前提がおかしいので何をしてもうまくいかない。

 社会規範という輪の中の感覚を通して見れば、自分も盛龍には嫌悪感しかわかない。
 だがその輪をとりあえずおいておいた地点からこの話を読むと「他人も自分と同じだから、自分ができることは他の人間もできるはず」と思っている人間よりも、「他人は自分と違う」という前提に立ち、人を知ろうとした盛龍のほうがずっと他人を他人として尊重していると感じる。

 どれだけ周りから見たらおかしなことで「そうはならんやろ」というやり方に見えても、盛龍は一貫して「世界(他人)を知ってその中で生きよう」として行動していた。 
 自分がこの話が好きなのは、世界を知りたい、その中で生きたいと思って下手くそなりに必死に試行錯誤した盛龍の気持ちがすごく分かるからだ。

 もうひとつ自分が「ブルーヘヴン」が好きなのは、そういった盛龍の視点に物語がまったく寄り添っていないところだ。
 盛龍には同情すべき背景があり、社会の中で生きられない怪物になってしまったのは盛龍のせいではない。
 だが当たり前だが、他人にはそんなことは何も関係がない。受け入れなければいけない義務もない。
 殺されたシンディや船長や多くの人は、盛龍が社会のことがわからない、可哀想な生い立ちだから殺されても仕方がないのか。そんなはずがない。
 盛龍を極悪なテロリスト、排除しなければならない殺人鬼としてしか見ず拒絶する夏川や佐野の態度は真っ当で妥当なものだ(夏川、佐野、ジュゴンが極限状態でも真っ当さを保ち続けているところが凄くいい)

 世界を知りたい、その中で生きたかった殺人鬼に視点を寄せずに、日常を生きる真っ当な人の視点で理解不能な災厄のような人物としてのみ描いている、そのフラットさが凄く好きなのだ。

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