色々引っかかることがあっても、「ケントゥリア」を面白いと思い期待する理由。
第一話の序盤は読んでいて引っかかるポイントが多かった。
「奴隷」は資産なので、労働力にならなそうな老人と二人分の価値がある妊婦が同じ待遇というのはありえないのでは、と気になった。
「買い手がつかない」というが、これも何故かわからない。ミラなんて絶対高値だろう。
その他にも、船長の「何も成せない無価値な奴らだ」と言う台詞も引っかかった。
これは明らかに奴隷を「商品」ではなく対等の人間として人生の価値を判断している台詞だ。
現代で言えば家畜に向かって「何も成せない無価値な奴らだ」と言うようなもので考えられない。この台詞によって、逆説的に船長はユリアンたちを人間扱いしていることになってしまっている。
この話は「奴隷とは何か」という語りで始まっているので、「奴隷とはどういうものか」は大事だ。
その大事な部分で首を捻っている時点で、この話にだいぶ懐疑的になった。
もう一点は主人公ユリアンを助けて死ぬ妊婦ミラの存在だ。
以前から書いているが、「男の物語のために女性キャラを聖なる被害者化する構図」は好きではない。
女性キャラが「男の物語」において「無条件に受容してくれる存在」という役割を引き受させられることを批判的に見るのは、それが今の社会の性役割の構図と被っているからだ。
ミラは、ユリアンを受容して生きる意味を与えるためだけに存在している……要は深層化ではユリアンを受容し産む(産み直す)ためだけに存在するキャラである。
ミラがユリアンを全面的に受容することで→子宮に戻す(安心感を与える)→愛情を与え尊厳がある存在として産み直す
というのが、暗喩的に見た第一話の流れである。
「2024年に男を受け入れ、男(の物語)を産むためだけの聖母が出てきてしまうのか」と思った。
残念だなとは思うが、創作は面白ければいいのでまあいいかと思っていた。
だが、第二話まで読み終わって、この点はだいぶ感想が変わった。
「ユリアン(の物語)を産む母親」が一人ではなかったからだ。
造形的にも女性がモチーフになっているし、「海」は女性や母親……さらに言うと子宮の暗喩として用いられることもある。
ユリアンはミラという母によって愛情、安心、人としての尊厳を与えられた。
そしてもう一人の母「海」によって百の命と百人分の力を与えられ生まれ変わる。
しかしその過程や母の姿を見れば、その祝福(誕生)は決してこの先も祝福に満ちた幸福なものであるとは考えられない。
自分を受容し愛情を与えてくれるものであると同時に得体が知れず、自分の大切なものを奪い抑圧してくるもの、誕生は尊厳に満ちた素晴らしいものであると同時に、人から妬まれ攻撃される苦難に満ちたもの。
母性はそういう二面性を持つ。
無償の愛をくれて全人的に受け止めてくれる「聖母(ミラ)」に対して、もう一人の母「海」は、不誠実でまったく信頼できない。
「今後、海がお前に牙を剥くことはない」
「漕がずともこのボートは一日で陸に着くだろう」
「幸運を」
と、「母」が言ったあとの二話の冒頭がこれである。
命(祝福)を与えて「大丈夫だから」「幸運を」と言いながら、実際はこれだ。呼吸するように嘘をつく。
気まぐれで無責任で嘘つきで自分勝手、命(祝福)を与えておきながら次の瞬間には子供のことなどすぐに忘れてしまう。
この話は、そういう「もう一人の母」の無責任な虚言に満ちた祝福も背負っている。
この母親の二面性、余りに気まぐれで無責任で子供に無関心すぎて、結果的に滅茶苦茶残酷になるという負の母親像がいい。
こういう母親を持つと子供はとても苦労する。
自分がこの話で最もいいと思ったのは、主人公ユリアンの人物像だ。
第二話までを読んだ限りでは、ユリアンは稀に見るほど素直で性格がいい。
「母」によって捨てられ傷つけられたにも関わらず、母を恨んでいる様子がない。ミラに優しくされれば、特に葛藤も反発も見せずにその愛情を素直に受け取る。
背負わされた責任であるディアナに対しても、それを重荷に感じているような描写がほとんどない。
訳の分からない化け物に遭遇して船が大破した直後で自分も不安だろうに、ディアナに対してすぐに「保護者の顔」になる。
少年漫画の主人公に余り興味を持つことがないのだが、ユリアンは凄く好きだ。
こういう素直で優しい少年は、気まぐれと無関心が高じて残酷にすらなる母親に振り回される物語と相性が良さそうだ(「誰も知らない」を思い出す)
残酷な母(=世界)に対する素直で真面目な少年の葛藤の物語になるといいなあ、と期待しながらとりあえず読み続けようと思う。
※続き。五話までの感想。
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