善意や愛情、良識からであったとしても「自分」を浸食されそうになれば、悪魔にならざるえない。
最初読んだ時は、
幼い頃から天使になりたかったんじゃないのか?
他人に承認されれば(選ばれれば)何でもよかったのか?
他人の承認なしでは「自分」がまったく成り立たないということ?
と「?」が十個くらい浮かんでまったくピンとこなかった。
ただ何か引っかかるものがあるので、少し考えてみた。
自分が「天を夢見て」で一番引っかかったのは、ガブリエと妹(ラミ)が主人公・ライアンの生き方や考え方にやたら干渉してくるところだ。
二人の干渉が善意(愛情や良識)からであることはわかる。
だが仮にそれが「いいこと」であるとしても、他人の人生に口出ししてコントロールすること(本人に判断させないこと)に疑問を感じる。
ラミは一貫してこの態度なので、妹の言動を否定するためには常に「愛情であることはわかるが……」と留保をつけなければいけない。
そうすると「自分の考えは違う」と言うたびに罪悪感が溜まっていき、主張することが苦しくなる(ライアンは頑張って喋っているが)
「ライアン、ラミ、ガブリエ」の関係は、完全に子供、過保護な母親、過干渉で抑圧的な父親の関係である。
ラミは本来は怒って注意しなければいけないような時もしない。「悪者」になることを徹底的に避けている。
正邪、善悪、是非を全部他人(親)に判断され弁護まで代替されたら、そりゃあ何もしゃべらなくなる。しゃべることがない。
ライアンはそれでも「自分の気持ち」を話そうとするが、
遮られて(人生の)結論を出される。
妹もガブリエも基本、善意と愛情と良識からこういうことをしているのがキツイ。
仮にそれが自分の目から「人生の無駄、浪費」にしか見えないとしても、いい大人が自分の人生を浪費したいと言っているなら浪費する自由がある。そしてそれを「浪費だ」と思う自由がある。
納得するまで時間がかかるタイプもいるのだ(何なら一生納得しないタイプもいる)
こういうことをきちんとやらないと自分の人生を生きている実感が持てず「他人に干渉されている(判断されている)状態が自分」だと思ってしまう。
妹やガブリエは主人公に対する愛情や思いやりや常識的な判断に基づいて言動を投げている。
だがやっていることは「葬式帰り」で章雄が陽介にやっていることと変わりがない(結果的に変わりがなくなっている)
ラミがライアンの(言動を否定することで)存在を肯定していたのは、ライアンの心を慮ってではない。
自分を愛して欲しかった(見捨てられたくなかった)からだ。
だから注意したり怒ったりしなければいけない時も「負の感情」を引き受けない。結果的に対ラミにおいてライアンがネガティブな要素をすべて引き受けなければならなくなる(実際引き受けている)
ガブリエは、ライアンに「どういう人間か」をわからせようとした。(ただの推測だが、『自分の良識的な判断』がライアンに影響を与えないために不安が芽生えるのが嫌だったのではと思う)
二人ともライアンの存在に浸食することで、自分の不安を埋め合わせようとしている。
相手に抑えつけられながら「自分」を浸食されている。
しかし相手は善(天使)である。
それなら、それに抵抗する、おかしいと思う自分は自動的に「醜い」「悪」になる。
ライアンが悪魔になったのは、愛情や善意や正しさや良識に糊塗された「何でも肯定するから私を愛して」というラミや「天使になる才能がないのだから、諦めて司書になることを何としても認めさせたい」というガブリエの「自分の思い通りの人間でいろ」という圧力から「自分」を守るためではないか。
ラミに対して「俺の心(のみ)が醜い」と線引きしたのは(ラミへの思いやりもあるが)「俺とお前は違う」と明確にするためだ。
「才能がない兄が大好きで保護者的な役割もしている」ラミの設定を30歳まで受け入れていたライアンは、自分はけっこういい兄貴だと思う。
これくらいわかりやすく爆発してくれたら、周りも「そうだったんだ」とさすがに気付く(気付いていたことを認める)と思うけどな。
ライアンはガブリエの最期の言葉を黙って聞いて「俺もそう思っていた」と答えるところを見ても、我慢強すぎだ。
その我慢強さが仇になった皮肉さにガブリエは気付かず死に、ライアン自身も気付いていなさそうなところが良かった。
※続き。もう少し考えてみた。