「推しの子」が面白いと思うのは、自罰感情という負のエネルギーに満ちた話だからだ。
※原作のネタバレがあります。注意してください。
※いま現在発売中の11巻までの感想です。
↑の記事は、評判になっているからとりあえず言及しただけみたいな内容なので、何か言うのも何なんだけど
これは首をひねった。
冒頭から吾郎の視点で始まるから、すぐに吾郎→アイへの感情がメインの話だとわかると思う。
アイのビジュアルが多いのは「吾郎の視点(推す側)」の話だからだ。タイトルもまんま「推しの子(になる)」だし。
主人公は「推し」ではなく「推している側」(吾郎)だと冒頭から明示しているのに「アイドルのサクセスストーリーじゃなかった」と思う人がいるかな。「吾郎がアイ(推し)の子供を育てる話」と思うならわかるが。
上の記事はともかく、自分も「推しの子」は好みがわかれる作品だと思う。
「成人の男が生前の記憶と人格を持ったまま、未成年アイドルの子供に転生する」
字面にしたらだいぶ不気味なこのあらすじを、これだけ多くの人に受け入れさせたことが凄い。
アクアが「アイの母乳を飲むのはさすがにまずい」と考えるシーンがあったが、ずいぶんきわどいところを攻めるなと思った。
「推しの子」は面白いと思う。
ただテーマも外形もかなり好みが分かれる作品だと思ったので、なぜこの作品が人気が出たかがよくわからなかった。
この話は「前時代的な男らしさ」がベースにある作品だと思う。
この話の根本は(既刊まで読んだ限りでは)「原罪を背負った男の贖罪の話」だ。
上の記事にも書いたけれど、吾郎は自分の母親を救えなかったという思いを「推し」であるアイに投影し、「『母』を救うために」推しの子に生まれかわった。
「救えなかった母」の大元はアイではなく吾郎の母親だ。そして「母を殺したために罰せられなくてはならない男」は、ヒカルではなく吾郎である。吾郎は「母を殺したのは自分だ」と思わされている。
「母を殺さずに自分が生まれてくる」という代償のストーリーを得るために、産科医になる。(母を救い続ける)
これだけでだいぶ業が深いが、それでも自罰感情から逃れられない。
だから「アイ」という新たな「母」を救うために、アイの息子に生まれ変わる。
吾郎のこの感情をどうにかするためにアイ(新たな母)は死ぬし、「自分が母を殺した」と思わないために、二回目の状況では「母を殺した悪である、倒すべき父」が用意されている。
「自分は母を殺して生まれてきた」という思いひとつで産科医になり、何人もの出産を経験しても心が癒されず、ついには新たな母親の下に「生まれ直す」、しかしそれも叶えられず「残酷な父」を殺すことで傷を癒そうとする。
「推しの子」は、上記の「アクア(吾郎)の内面の枠組み」によって作られているので、アクアが女性に惹かれるのはその中にアイ(母=スター)の要素を見たときである。
この構図をあかねやかなは抵抗なく(というよりあかねがアイの人格をトレースしたようにむしろ率先して)受け入れる。
アクアがコーディネイトしたデートでかながときめくエピソードがあったが、「女性が倍以上年上の男に一方的にリードされるデートに、ときめき喜ぶ」という描写が、何の屈託もなく出てくることに驚いた。
*アクアのかなやあかねに対する態度は、上の記事に書いた「恋愛モノの少女漫画の強引な相手役」と重なる。
「吾郎(成人)の経験が生きている」というセリフがあるので、文脈的に「身体年齢だけを基準にしてみる」ことが厳しい。
自分がアクアというキャラが苦手なのは(穏当な表現)
「身体年齢と精神年齢はリンクすると言って十代の女性キャラと恋愛関係を匂わせながら、一方で実際の年齢差を理由にして上から教導するような言動が多すぎる。そういう上からの態度でいながら、相手の女性に母親の影を見る都合の良さ」があるからだ。
「女性の母の部分を切実に必要としているが、女の部分はどうとでもできると思っている」
「女性が嫌い」というよりも、「母(スター)」の部分を必要としすぎていて「女性」の部分は見下している。(キツイ言い方だがアクアの言動を見るとそうとしか見えない)
ある種の「女性嫌い」にはこういう女性への発想なり扱いがあるが、アクアはこのままのキャラである。
さりなが死ぬ直前のシーンも、「娘が死にそうなのにやってこない両親」は吾郎の中では「母親」に集約される。
これもここだけ見れば(作内でも指摘されているが)「今の時代に母親幻想か」と思うが、この話では「吾郎の中での『母親』という存在の大きさ、美しさ」を表している。
「母親」=美しい、「女性(の個人的な部分)」=身勝手で醜いの対比である。
この「吾郎の『母』という幻想への思いの大きさ」は同じくらい「大きな思いの対象」でなければ接続できない。
アイ(スター)が吾郎とさりなの新たな母親になれたのはこの接続のためだ。
では「推しの子」は「男(吾郎)に都合がいい夢」を描いているか、というとそんなことはない。
むしろ男にとって苦しい世界である。
アクアは女性と責任を分け合わず(アクアと共闘の責任を分け合えるのは、吾郎と同じ「大人の男」だけである)常に自分一人で責任を負い、行動を起こす。同じ立場にいるルビィとも共闘せず、信頼関係にあったあかねにも心を打ち明けず一人で父と対峙しようとする。
かなを救うために自分たちの素性を打ち明けてルビィに絶縁されても、あかねやルビィに自分の狡猾さを責められても、抗弁せずに憎まれ役になり自分一人で「悪性」を抱え込む。
二度も母親を目の前で失って傷ついているにも関わらず、アクアはその傷を癒すのではなく、父親と一人で戦うことを選ぶ。
アクアの言動は良くも悪くも「強者としての男らしさ」に基づいている。
ジェンダーの観点で創作を見るなら、萌え絵や巨乳よりも、自分はこういうストーリーの枠組みのほうが気になる。
創作は面白ければいいからいいんだけど。
「推しの子」を面白いと感じるのは「母を殺してしまった」という吾郎の自罰感情が話を回しているからだ。
自分は、たった一人の負のエネルギーの発露(もしくは抑制)によって生成されるストーリーに惹かれる傾向がある。そのエネルギーを抑えきって、世界に何の影響もなく終わりました、という話が好きだ。
自分にとって「推しの子」は、「母を救えなかった息子である吾郎の苦悩の物語」だ。
吾郎が囚われている自罰感情は、こんなところに人を陥らせていいのかと思うほど暗くて深い。見ていて気の毒だ。
吾郎が背負わされた罪の意識から回復できるといいが、と思いながら読んでいる。
※最終回まで読んだ感想。