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「公正世界仮説」に反する物語が好き。

 先日、高橋ツトム「ブルーヘヴン」が好きだという記事を書いた。
 上の記事には入れられなかった好きな理由のひとつが「『公正世界仮説』に反する原理が働いているから」だ。

 盛龍たちが乗る漂流船を見つけた時、ブルーヘヴンの社長と船長は「救助すべきか否か」で揉める。

(引用元:「ブルーヘヴン」高橋ツトム 集英社)

 社運を賭けた豪華クルーズ船の航行中に、漂流船の救助などしていられない、身元不明の人間を乗せるわけにもいかない、人道など知ったことではないと言う社長に対して、船長は「太平洋のど真ん中で漂流する船を助けなければ、生存者がいたしても確実死ぬだろう」と主張する。

(引用元:「ブルーヘヴン」高橋ツトム 集英社)
(引用元:「ブルーヘヴン」高橋ツトム 集英社)

「大海の中を漂流している船を救う」
 それは佐野も考えるように、「人間として当然の行動」だ。

 だがその結果、船長は自分が救助した盛龍によって首を切断されて殺される。
 佐野も腕を折られ、足を撃ち抜かれる大怪我を負う。
「人間として当然の間違っていない行動」をした彼らは、その正しさや善行が報われるどころか命すら(意味なく)落とす。

 コーマック・マッカーシーの作品が好きなのも、「ブルーヘヴン」と同じように「公正世界の仮説」に反する原理が働いているからだ。

今回の新版の訳者あとがきにも書きましたけど、普通のノワールでは欲をかいた人間がその罰を受けるっていうのが普通なんですよね。

——主人公のモスが麻薬の取引現場で取ってはいけないお金を盗ってしまったと。
黒原:そのためにひどい目に遭う。人間はなんと強欲なんだ、と「人間の性(さが)」を描くのが普通なんですけども、この小説は違うんですよ。確かに欲でもって金を盗ったんですけども、余計なことをしなければうまくいったはずなんですよね。だけど主人公のモスは怪我した麻薬取引業者の一人に水を飲ませてやりたくて、また現場に戻ってしまう(略)
 これはモスがベトナム帰還兵だから、死にそうな戦友に水を飲ませてやりたいという経験があったのかもしれません。だから善い行いをするんですね。だけど善良なことをやったがためにシガーという殺し屋に追われることになる。つまり善い人が報われるとか悪いことをしたから破滅するとかじゃない。さっき言った世界の不条理をマッカーシーはここでも描いていますね。

(引用元:翻訳家・黒原敏行に訊く故・コーマック・マッカーシーの凄み「徹底したリアリズムによって描かれた世界は現実さえも幻影となる」)

 上記に書いてある通り「ノー・カントリー・フォー・オールドメン」では、モスは瀕死の男に水を持って行ってやった結果、殺し屋シガーに存在を見つかってしまう。
「越境」では、ビリーと弟のボイドは飢えた男に食べ物をあげたために、家を襲撃され両親を殺される。

 マッカーシー作品の世界は不条理であり、個々の人間の善悪や苦しみ、悲しみ、愛情といったものを歯牙にかけない。
 世界は人間に興味も関心もなく、人には理解不能の法則で動き続けている。

「ブルーヘヴン」やマッカーシーの作品のような「世界公正仮説に反する法則性の話」が好きなのは、自分が感じる「世界の実像」に近いからだ。
 こういう世界観の話のほうが、読んでいて落ち着く。フロムのゲームが好きな理由も同じである。
「不条理な話」のいいところは、モブも主人公も関係なく、皆が等しく理不尽な目に合うところだ。
 主人公は、他の話のように「他者から承認される存在」ではなく「人間を代表して世界という歯車に巻き込まれる役目」であるため、大抵の場合、理不尽な運命と状況にただ振り回される。

「世界は人間(個人)には興味がなく、人間には理解できない法則性で淡々と動いているだけだ」という世界観に加えて、「いい人間がいいことをしたからと言って、その行動が正しいとは限らない。さらに言えば、最悪な結果を招くこともありうる」という法則も自分の実感に近い。

 その人が「いい人かどうか」は「行動が正しいかどうか」とは関係がない。さらに、その二つの要素は「良い結果を招くか」とは関係がない。
 この三つは別々の要素だからひとつひとつを別々に判断しなければならない
「いい人であること」は「行動が正しい」根拠にはなりえないし、「動機が正しいこと(善意であること)」は「よい結果を招く」根拠にはなりえない。
 当たり前のことに聞こえるけど、意外とこの三つを混同している言説が多いと感じる。
 凄く立派な人が無私の精神で良いことをしようとして、周りが大迷惑を被る、悲惨な結果を招くことは往々にしてある(「ブルーヘヴン」はこのパターン)

 そういう作品を読んで「善行には良い結果で報いられる、なんて嘘だよなw」「『正しいこと』『良いこと』なんてする奴がアホなんだ」と思うのか、というとそれも違う。(むしろそういうシニシズムは嫌い)
「冷徹で不条理な世界でも、自分が信じることが出来るかどうか」を描いているところが好きなのだ。

「善行は報われ(自分が得をする)、悪行には報いがある」
 そういう法則性があるという理由で、悪いことをせず善いことをするなら、それは自分の考えや行動が「世界の法則性に支配されている」ことになる。

「公平世界仮説」が成り立たない不条理な世界では、自分の善や正しさ、信念、行動が報われることはない。むしろ、そんなものは捨てたほうが得をする。
 報われるとは限らないこそ「そこで何をするか」「どう考えるか」はすべて自分という存在に依拠することになる。

(引用元:「ヴラド・ドラクラ」7巻 大窪晶与 KADOKAWA)
(引用元:「ヴラド・ドラクラ」7巻 大窪晶与 KADOKAWA)

「結果の損得で行動の良し悪しを判断する他人」から見れば明らかに何の意味もない行動だとしても、死にかけた男に水を飲ませるために戻る。
 それはモスが「正しい立派な人間だから」ではない。(正しい人間ならそもそもマフィアの金を強奪しようとしない)
 ベトナムで多くの戦友が死ぬのを見てきたという他の人間が持たない経験と、そこから生じる自分だけの感情や考えを持つからだ。
「殺し屋に追い回され、追い詰められ殺される。その運命から逃れられない」
 そういう不条理な世界でも、自分は死にかけた人間に水をあげずにはおれない人間だ。
 そう分かった時に、初めてその心情や行動が他の何かから押し付けられた基準ではない、自分自身を規定するために自分自身で作った、自分という要素だけでできているものだとわかる。

 無慈悲で冷徹で人間など虫と同じくらい簡単に踏み殺される強大な世界に立ち向かう唯一の方法は、「どんな状況下でも、自分がまぎれもない自分自身で居続けること」ではないか。

 そう思うから「ブルーヘヴン」やマッカーシーの作品が好きなのだ。

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