【「セクシー田中さん」考察】「朱里の進学先をなぜ短大から専門学校に変えてはいけないのか」など。
「『セクシー田中さん』調査報告書 (公表版)日本テレビ」の中で出てきた、原作者(以下作者)が疑問を口にした箇所について考えてみた。
◆作者が気にしていたのは改変そのものではなく、キャラがブレること。
報告書を読んだ限りでは、作者が一番気にしていたのは「改変されること」ではなく「キャラがブレること」だ。
何度か出てくるが、作者はドラマ化する上で「すべて原作通りというわけにはいかないこと」「改変が入ること」は承知している。
ただ「キャラをブレさせない」という要望が通らないために、キャラをブレさせないためには、エピソードを入れ替えず台詞も一語一句変えないという方法を取るしかない。
そう考えている。
報告書の中で作者が「キャラブレ」について一番多くの指摘しているのは、主人公の朱里だ。
朱里については具体的に二つの点があげられている。
①原作では短大だった進学先を、専門学校にする改変。
②朱里が他人をディスる発言をする時のルール
作者が指摘したこの二点を中心に、朱里のキャラを考えたい。
◆どの角度から見ても、改変が必要な理由がわからない。
朱里のキャラを作者がどう考えていたかは、報告書に出てくる。
原作を読むと①の「『女の子だから』短大でいいだろう」と言われたエピソードは、朱里のその後の人格形成や言動に大きな影響を与えている。
このエピソードを「今の時代は専門学校のほうがリアリティがあるから」と言う理由で変えてしまう。
この一事だけでも、作者に「原作をリスペクトするというのは本当なのか」と疑われても仕方がないと思う。
さらに日本テレビの報告書の序盤に「ドラマの企画ポイント」として、下記の文言が出てくる。
あらゆる世代の中でも特に60代の専業主婦をターゲットとして上げているのを見ると、ドラマ制作という枠内の中だけでさえなぜ変えたかがよくわからない。
この世代の女性であれば、むしろ「女だから」という理由で自分の能力と意思のみで望む進路に行けなかった(特に学歴を諦めなければならなかった)経験はリアリティがあると思う。
今の時代でも女性という理由で地元の大学に行くように言われるという話も聞くし、改変しなければならないほど時代錯誤な設定だとも思えない。
作者が気にしていたのが改変そのものではなく「キャラブレ」だとすると、朱里のその後の考え方や言動に与える影響が同じならば(キャラブレしないのであれば)改変しても作者は何も言わなかったのではと思う。
では、このエピソードがどんな影響を朱里の考えや言動に与えているのか。
◆「女の子だから短大でいいよね」と母親から言われたエピソードは、朱里の内面に大きな影響を与えている。
……と言ってみたものの、朱里がこのエピソードを話す時自分の内面も一緒に話しているので、「読めばわかるのでは」と思う。
一読者でさえそう思うのだから、一貫して「キャラブレしないで欲しい」と求めている作者が、この箇所を改変すると聞かされれば疑心暗鬼に駆られるのもわかる。
(描いてあるけれど)一応説明すると、朱里は家庭が経済的に苦しくなったために「女の子だから」短大でいいだろうと言われ、短大に進学した。
なぜ「女の子だと短大でいい」のかと言えば、いいところに就職できなくとも最終的には結婚して夫の経済力の下で生きていくことになるだろうから、という含意がある。
男にとっての就活は女性にとっての婚活である。そういう価値観が現れた言葉である。
朱里は望む通りの進路を選べなかったこともあり、就活もうまくいかず正社員になれなかった。
朱里は「女性」という理由で「短大でいい」と言われることで、社会で生きていくための自分が望んだ基盤を与えられなかった。別の場所で別の方法で(結婚して)生きるしかないのだと思わされる。
そのため婚活というステージで価値がある「若さと可愛さ」がなくなってしまえば、自分には何も価値がない感じている。
だから結婚相手として男を品定めし「若くて可愛い女」として品定めされるために、合コンを繰り返すようになる。
朱里は田中さんと会うまで、この価値観の中でむしろ率先して「勝ち組」になろうとしている。
それは子供のころ、競争相手に同情し一位を譲った時に、母親に「嘘をつくな」と言われた経験が影響している。
与えられた枠組みの中の価値観に沿わない行為をし、結果を出さなければどれほど自分の真意を訴えてもそれは言い訳としか取られない。
そういう経験を経て、常に自分がいる枠組みの中で「上手く」立ち回る術を身に付けるようになった。
以前書いたが、女性は社会で「対男性においてどういう存在か」で判断されやすい。
「女だから短大でいい」
「女性はどうせ結婚するから進路(学歴→就職)は気にしなくていい」
生き方も生活状況も社会的立場も、どんな男に選ばれるかによって規定される。
「父親(男)のリストラによって娘は進路を規定される(息子は規定されないのに)」ということを母親が娘に迫ることで、女性が囚われているこの構造がどれだけ根深いかを表している。
「一人では生きていけないという不安から、婚活を繰り返す。『女の子』だからそう生きていくしかない。若さと可愛さを失い『女の子』でなくなれば、独りで生きていけないのに独りで生きるしかなくなる」
物語の最初に朱里が生きなければならなかった世界は、母親に言われた「女の子だから短大でいい」に象徴されるもので構成されている。
朱里(女性)の中で形成されたこの価値観が、「社会的な男(社会で『男』として認められる存在)」として生きられない進吾を追い詰める。
これが物語のスタート地点で、朱里や進吾が置かれている内面の構図だ。
◆「セクシー田中さん」では、自分とは立場が違う人間の「傷つき」はお互いにわからない。
この自分の内面の形成に大きな影響を与えたエピソードを、朱里は作内で二回語る。
一回目は小西、二回目は笙野に対してだ。
このことが作者が指摘した「②朱里が他人をディスる発言をする時のルール」につながる。
朱里が失礼とも思える態度を取るのは、作内では小西と笙野に対してだけだ。
朱里が「ディスり発言」をするルールのひとつに、「強者男性に対してのみ」というものがあるのではないか。
同じ年上の男でも社会の周縁部で生きる三好、自分を都合のいい存在として扱う進吾にさえ、朱里は笙野に対するような発言はしない。
自分が女性ゆえに置かれた不安な状況を話すのは、二回ともその環境とは対極にいる社会的強者であり男である小西と笙野である。そして朱里の話に対する二人の反応は、いまいち芯を理解しきれていないような微妙なものである。
一般的な物語であれば、強い痛みを以てなされた主要登場人物の主張は周りの人間に響き、そのことによって物語が推進する。
ところが「セクシー田中さん」はそうではない。
朱里が自分の原点ともいえる「傷つき」の話をしても、小西も笙野もわかったようなわからないような反応しか返さない。笙野にいたっては自分の思いに囚われたままの反応をしている。
現実に置き換えればとても自然な反応だ。
小西や笙野にとって朱里は他人であり、立場がまったく違う。だから自分たちの認識で相手の言葉を測り反応をかえす。
また似た経歴であっても、朱里が気になっている小西と、朱里に対して友人(というよりも腐れ縁)以上の感情を持っていない笙野とでも反応が違う。
特に小西の返しは、小西がどういう人物かこの一事だけでわかる絶妙な返しだと思う。
小西は朱里の「傷つき」に対しては、駆け引きに利用するような態度を取る(※)だが同じ男である進吾の「傷つき」は黙って聞き、共感を示す。
進吾も長年付き合いがある朱里ではなく、ほぼ初対面の小西に対して自分の苦しさを話す。
進吾は、朱里の友人である華が指摘するように恋愛における女性側の視点に立てば、「自己愛が強く自分のことが一番大事な人間」だ。
たが進吾の視点で見れば、社会という枠組みの中で「自己を守らなければ潰される寸前の状態」であることがわかる。
朱里が提示した「最低条件」も、進吾は抑圧する一部になっている。
進吾は、朱里や華にはこういった構図は話さない。理解されないだろうとわかっているからだ。
朱里の「傷つき」を、小西や笙野がいまいち理解できないのと同じである。
同じ男であり同じ世界を生きてきた小西に話せるのは、お互いの言っていることがわかるからだ。
◆人は自分に必要な影響を勝手に受け取り、勝手に変わる。
「セクシー田中さん」が面白いのは、登場人物たちの考え方や生き方に影響を与えるのが、わかりやすい主張や理解ではないところだ。
小西と進吾は同じ男としてその価値観を共有できる部分がある。だが進吾が自分が囚われていた枠から一歩踏み出すことが出来たのは、自分が感じる苦しみや抑圧がわからないだろう朱里が変わる姿を見たことによってだ。
朱里や笙野に大きな影響を与える田中さんも同じだ。
田中さんは二人に、自分の考えを強く主張するわけではない。(外形的は、むしろ田中さんが二人からの働きかけを受けとめる描写が多い)
ただ自分が好きだと思うことをするために、自信がないなりに必死に背筋を伸ばして生きている。
その伸ばされた背中を見て、二人が勝手に影響を受けてそれぞれのやり方で変わるのだ。
「セクシー田中さん」は、大きな山場だと思った箇所の後で話が予想外の方向に行ったり、ある登場人物にとってポイントだと思った箇所で他の登場人物が頓珍漢な反応を返したりするなど、物語としての「わかりやすさ」を考えた作りになっていない。
登場人物たちはよくわからない箇所で、いつの間にか影響を受けて、予想もしない方向に変化していく。
だが振り返れば、「この人物ならば、恐らくこういう言動をしてこういう影響を受けてこういう風に変化するだろう」ということが、すべて納得がいくようになっている。
◆まとめ
こういう作りの話を、ストーリーの都合に人物を言動を合わせた作りにしてしまうと、大まかなあらすじが同じだとしてもまったく違う物語になってしまう。
逆に登場人物たちがしっかり漫画の通りの人物として生きていれば、仮にオリジナルエピソードのみでドラマが構成されていても、作者は「ああ、なるほど、そうくるか!面白い!」と思ったのでないか。
二つの報告書を読んで、自分はそう感じた。
時間やスタッフのスケジュールやスポンサーやら色々な事情があるのはわかる(作者もわかっていた)
それでもまずはキャラの人物像の共有を徹底してやるべきだったのではないか。作者も「キャラクターや物語の核になるものが共有しきれていない」と言っていたようだし……。
「この話がどういう考え方で作られているか」という(大袈裟に言えば)物語作りにおける哲学を共有できていれば、「短大→専門学校」のような改変を安易に入れて作者に不信を抱かせることもなかったのではないか。
ドラマの原材として都合がいい。
それだけの理由で、ドラマ制作者側もこの話を選んだのではないと思う。
「セクシー田中さん」が面白く、多くの人に力を与えるエネルギーに満ちた話だと思ったから選んだのではないか。
大切に描かれた本当にいい作品だな、と読むたびに感じる。
「セクシー田中さん」は、この先のどういう展開になったのだろう。
田中さんは夢をかなえて海外にベリーダンスの勉強のために留学し、笙野もそれに着いていく。
朱里はメイクアップアーティストの道を進み、小西とはそのまま付き合うか、別れるか、とりあえず結婚はしないと思う。
自分の予想ではこうだが、田中さんが、朱里が、笙野が、小西が、三好が、ふみかがどんな人生を選ぶのか。
見たかった。
※男であり社会的な強者である小西は感覚的には朱里の言うことを理解できないが、直感的には理解している。だから自分に心を開いた朱里に惹かれている。だが性格的に真剣になることにかなり慎重なため、自分が本気になることを防ぐために、あえて上から「理解している」態を取っている。自分は、小西が本気で朱里に惹かれだしたのはこのシーンからではと思う。
こういう二人がお互いに心を開き始めたような重要なシーンの後に、小西が「いつまで誠実な俺でいられるか自信がない」と言うなど一般的な物語では考えられないが(関係性が後退しているように見えるため)ひとつのエピソードに小西の生来の性格やそこから派生する考え方が影響を受けて劇的に変化しないところが、この作品のいいところである。