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「自分にとって必要ない創作」を見極めるレファレンス能力は、今後重要かもしれない&「違国日記」と「二階堂地獄ゴルフ」の比較について。

※ヤマシタトモコ「違国日記」について批判的な内容が含まれています。

 この増田を読んで「読んでみるか」と思って一巻を読み始めて気づいた。
 自分はこの話を過去に二回読んでいる。そして二回とも一巻の途中で読むのを止めている。

「違国日記」は自分が「独裁国家」と呼ぶ「むき出しの自己を批判なく承認される話」である。

 自分は男向けにせよ女性向けにせよ、主人公の万能感、有能力感を楽しむ造りの話は余り好きではない。中でも「独裁国家」は読んでしまうと日常に支障をきたすレベルで苦手なので、「そうかもしれない」と感じたらほぼ読むのを止める。
 自分が苦手なだけで、そういう創作があることはまったく構わない。
「転生したら無双能力を与えられた俺に、巨乳美少女が次々寄ってきてウハウハハーレム」でも「底意地が悪い妹に虐げられている私を、イケメン金持ち強者男が見初めて、妹たちに『姉のほうが優れている』とビシッと言ってくれる」でもいいのだ。創作なのだから。

「独裁国家」は、「底意地が悪い妹に虐げられている私を、イケメン金持ち強者男が見初めて、妹たちに『姉のほうが優れている』とビシッと言ってくれる物語類型」の「底意地の悪い妹」をモブ、「強者男」を主要登場人物に差し替えたもので、ありのままの姿の主人公に周囲が無条件に承認を与える、という構造になっている。

「違国日記」は(三巻まで読んだ限りは)物語全体がそういう造りだ。
 どこでそう感じたかの例をひとつあげると、 

(引用元:「違国日記」1巻ヤマシタトモコ 祥伝社)

一番気になったのはこのシーンだ。
 槇生の言っていることも相手を傷つける可能性がある言葉……という以前に単純に失礼な言葉である。
 槇生がうまく大人ができない大人だというのは分かる。だが物語的に槙生が朝に放って言った言葉が「悪いと思う、思っているけど」で済まされて、槙生の「傷つき」のほうに話が移るのは何故なのか。
 槙生は葬式のシーンで、親戚たちの自分たちの都合と憶測を述べた言葉が「醜悪」であり朝を「踏みにじる」と表現したが、自分から見ると槇生の言葉も大して変わらない。
 
 この類型の話は、いつも言動の是非の価値判断基準が理解できない。恐らくだが「何を言ったか(何をしたか)」はほぼ関係がなく「誰が言ったか(したか)」がすべてなのではと推測している。
「違国日記」の↑のシーンは、朝にとっては他の親戚も槇生も同じように「よく知らない親戚」である。とすると「(朝にとってではなく)槇生を中心とした関係が言動の是非の判断基準になる」としか考えようがない。
 この話は槇生が主人公(主体)なので「同じ言葉でも、自分が言う時は批判されるべきものではなくなると思っている」と考えるしかなくなる。
 過去二回、読むのを止めた理由はたぶんこれだと思う。

 これが成人同士ならまだしもわかる(本当はよくわからないけど一応)
 だが朝は親を亡くし他に行く場所がなく槙生に引き取られ、今後槙生の庇護の下で生きていくしかない。仮にここで朝が「傷ついた」としても、こういう返しをされたらそれ以上何も言えない、そして今後も何も言えなくなる可能性がある。
「違国日記」は他人の言動は批判的に点検するが、他人に対する槇生の言動を批判的に点検する視点がほぼない
 
親に突然死なれたばかりの十五の子供に、むき出しの自己を承認してくれることを求めるが、外形的には自分がその子を受け入れた形にしたい。

(引用元:「違国日記」1巻ヤマシタトモコ 祥伝社)

 このシーンがわかりやすいが、「むき出しの自分」の言葉に対して周り(社会)はモブになり、聞いている十五歳の子供が涙を流す。
「違国日記」は、この構図が内面化された話である。
 この演説の後の他の人の反応はどうなったのか、葬式の場がどうなったか。そういうシーンがない(スルーしてしまう)ところが「自己とは違う存在=他者」が存在しない作品なのだなと感じる。
 文字通り「批判(的な他者)は存在しない」のだ。

「自分は他者を無視することができ、他者を批判し作用することもできる」という「違国日記」の世界観に対して、「二階堂地獄ゴルフ」は真逆の世界観である。

(引用元「二階堂地獄ゴルフ」1巻 福本伸行 講談社)
(引用元「二階堂地獄ゴルフ」1巻 福本伸行 講談社)

「他人、社会、世界は自分にまったく興味がなく、スルーされる」

(引用元「二階堂地獄ゴルフ」1巻 福本伸行 講談社)

「自分の真剣さを取るに足らないゴミかのようにスルーする他人(社会)の中で、自己をどう打ち立てるか」
 周りにはまったく認められない(承認されない)のだから、自己を支えるものは自己しかない。
 こういう状況で初めて「自分(主体)」は立ち現れてくる。

「社会に認められない男の鬱屈」を描かせたら福本伸行の右に出る人間はいないが、「二階堂地獄ゴルフ」はそれをギャグに落とし込むことでギリギリの線まで描いている(ちょっと遊びすぎじゃないか、と思う描写もあるが)
 桐島との下りは凄く良かった(泣いた)

「社会的な務めを果さない、他人にとって都合が良くない自分であっても、無謬の自己として周りから承認してもらいたい」
「自分は他人にとって都合が良いものでいたくないが、他人はすべて自分を無条件に承認してくれる、自分にとって都合が良い存在でいて欲しい」

 そういう欲望自体は構わない。
 ただそれは、「他者の承認の支え」がなければ自己を打ち立てられないという意味では、女性をこれまで抑圧してきた規範を肯定的になぞっているだけだ。
 それを現実の社会問題に接続しうる話とされて、ジェンダーやフェミニズムの観点で語られると「?」が頭の中に10個くらい浮かぶ。

というように、「現実のジェンダーの問題と接続しうる」という観点だと「それはどうかな」と言いたくなるが、そうではないならただ単に自分には合わない作品だ、で済ますことができる。
 今は一生かかっても読みきれないくらい膨大な数のコンテンツがあるので、「自分に合うものを探すレファレンス能力」が重要なのかもしれない。

◆余談

「違国日記」のような作品を面白いと感じる人は、「二階堂地獄ゴルフ」の一巻の最後で二階堂が桐島に謝った理由が感覚的にピンとこないのでは、と思った(逆もまた然り)

(引用元「二階堂地獄ゴルフ」1巻 福本伸行 講談社)

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