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コーマック・マッカーシーの「平原の町」がブロマンスであることに、今さら気付いた。

↑の記事でホームズとワトソンは「凄く仲良く育った兄弟が、そのまま大人になった」「阿吽の呼吸があり、それに甘えることが出来る関係」に見えると書いたが、「よく考えたら、それはブロマンスではないか」と気付いた(遅い)

「ブロマンス」は日本のBLの一ジャンルとして生まれた造語かと思っていたが、

ブロマンス(英語: bromance)とは、2人もしくはそれ以上の人数の男性同士の近しい関係のこと。性的な関わりはないものの、ホモソーシャルな親密さの一種とされる[1]。
Bromance という単語は、bro もしくは brother(兄弟)と romance(ロマンス)のかばん語である。 スケートボード雑誌ビッグ・ブラザー(英語版)編集者のデイヴ・カーニー(英語版)によって、四六時中一緒にスケートボードをしているような関係という意味に限定して使うために造られた言葉である[2]。

(Wikipedeiaより)

調べたら、英語圏でBLとは関わりなく生まれた語らしい。

 言われてみれば「スタンド・バイ・ミー」のクリスとゴーディ、「ロング・グッドバイ」のマーロウとテリーなど英語圏の作品ではよく見かける関係性だ。
 クリスがゴーディに「俺がお前の親父だったらなあ」と言ったように(※1)男同士(友達同士)だが、甘やかしてやりたい、保護者になってやりたい(もしくは甘えたい、被保護者になりたい)という感情を伴っていることがポイントだ(と思う)
 日本の創作だと男同士はライバル(対等)の関係が多く、似た関係を探すと映画版「スラムダンク」の宮城兄弟のような本当の兄弟や父子、もしくは対等さがない(友達要素のない)師弟関係しか思い浮かばない。
 探せばあるとは思うが、英語圏よりは圧倒的に少ない(※2)
 キリスト教文化と儒教文化の違いなどが根底にあるのだろうか(有識者がいそう)

 ブロマンスが英語圏で生まれたジャンルとわかった時に、もしかしたら「平原の町」はマッカーシーが意識的にブロマンスの要素を入れたのではと思いついた。
 それくらい「平原の町」のビリーとジョン・グレイディの関係はマッカーシーの他の作品では考えられないくらい親密……よく言われる「わちゃわちゃ感」がある。

 例えばこのシーンだ。

「どういう話かは想像がつくよ」
と、ビリーはいった。
「ああ、そうだろうな」
 ビリーは話を聞くあいだ親指の爪でビール瓶のラベルをはがし続けた。ジョン・グレイディを見ることすらしなかった。(略)
「冗談なら笑いながらいえよ。くそ。お前は完璧に狂っちまったのか?」
「完璧には狂っていない」
「怪しいもんだ」
「おれはあの娘を愛しているんだ、ビリー」(略)
「もういい(略)この耳が信じられないよ。狂っちまったのはおれのほうだな。そうとしか考えられん。おまえはほんとにいかれちまったのか? 頭がどうにかなりそうだよ。こんな馬鹿な話、聞いたことがないや」(略)
「手伝ってくれるかい?」
「嫌なこった。おまえがどういう目に合うか教えてやろうか? お前は例の電気をかける機械に縛りつけられて、でかいスイッチをいれられて、脳味噌をこんがり焼かれて誰にも迷惑をかけないようにされるんだ」
「真面目な話なんだ、ビリー」
「おれが真面目に話していないと思うのか? おれも電線をつなぐのを手伝ってやるよ」
「おれが行ったんじゃだめなんだ。あの男はおれを知っているんだ」
「おれの目を見ろ、小僧。おまえの言っていることは滅茶苦茶だぞ。相手がどういう連中かわかっているのか? 都庁舎の前庭で、ナイフを商うみたいに人を売り買いするメキシコ人の淫売屋と掛け合って話がつくと思うか?」
「でも、どうしようもないんだ」
「その台詞は聞き飽きたよ、この野郎。どうしようもないとはどういうことだ?」
「もういい、もういいよ」
「もういいだと? くそったれが(略)おれかおまえかどっちかが狂っているんだ、くそ。おれのせいだ。そういうことだよ。おれが悪いんだ」
「あんたには関係のないことだ」
「何が関係ないんだ」
「もういいんだ、忘れてくれ」

(引用元:「平原の町」コーマック・マッカーシー/黒原敏行 早川書房 P193‐P198/太字は引用者)

 ジョン・グレイディは、恋した相手であるマグダレーナを身請けしようとしている。
 だが娼館のボス・エドゥアルドに目をつけられており、自分では娼館に立ち入ることができない。だからビリーに、代わりに話をしてきてくれないかと頼む。

 ジョン・グレイディとビリーの関係が凄く好きなのだが、とりわけこのシーンの会話はいい。
 ジョン・グレイディの性格、ビリーの性格、二人の関係が会話を読むだけで伝わってくる。
 真面目なシーンなのに読むたびに笑ってしまう。

 ビリーは娼館がどんな世界か、エドゥアルドがどんなに性質が悪い人間か、ジョン・グレイディがどれだけ無謀なことをしているかがわかっている。
 だから「お前は狂っている」「おかしくなっちまった」「何なら俺が電線をつないでやる」と悪態ばかりついている。
 だが決して自分からは話を打ち切ろうとはしない。ジョン・グレイディが「わかった、もういい」と言うたびに、「金がいくら用意できるんだ」とか「連れてきてどうするつもりだ」などと聞いて話をつなぎ、最終的にようやく「もう一遍考え直せ」と伝える。
 口では何と言っていようと、心配でたまらず、翻意させようとしていることが伝わってくる。
 ビリーは荒くれ者の中で生活してきたはみ出し者であり、そこまで口達者というわけではない。だからどうしても「説得しているようには見えない、説得のしかたになってしまう」のだ。

 ビリーはこのシーンに限らず、ジョン・グレイディに優しいことは一切言わない。乱暴で厳しく、相手の言うことを突っぱね憎まれ口を叩いてばかりいる。
 だが最終的にはいつもジョン・グレイディの頼みをきく。言葉は厳しくデレがないのに、実際の行動は無茶苦茶甘い。
 そしてジョン・グレイディも、ビリーが自分に甘く言うことを聞いてくれることを百も承知している。

 ジョン・グレイディが彼を起こしたのは、早朝のまだ暗い時だった。彼はうーんと唸って寝返りを打ち、頭の上に枕を載せた。
「起きろよ、カウボーイ」
「くそ、いま何時だ」
「五時半だ」
「何だよ、いったい?」
「犬を探しにいかないか?」
「犬? 何の犬だ? いったい何の話だ?」
「仔犬だよ」
「くそ」
と、ビリーは毒づいた(略)
「ビリー?」
「何だ、うるさいな」
「ちょっと、山へ上がって見てこようぜ」(略)
「まったく、頭がどうにかなりそうだよ」
「行こうぜ、きっと見つかるから」(略)
「いいから寝かせてくれよ」
「晩飯の時間までには戻れるから。保証する」
「頼むからおれのことは放っておいてくれ。頼む。お前を撃ち殺したくはないんだ。撃ち殺すとマックに長々とお説教されるからな」
「猟犬は最初の砂利が崩れ落ちたところにいただろう? きっとおれたちは、あそこで住処の五十フィート以内を通ったはずだ」

(引用元:「平原の町」コーマック・マッカーシー/黒原敏行 早川書房 P278‐P280/太字は引用者)

 朝の五時半に相手を叩き起こして「寝かせてくれないなら、お前のことを撃ち殺すぞ」と言っている相手の言葉をまったく聞かず、「行こうぜ」と言っている。
 相手が自分の頼みを百パーセント聞いてくれるという確信がなければ、こんなことはできない。

 そしてどうなるかというと、

 二人は、鞍の前橋にシャベルとツルハシと長さ四フィートの鉄梃を横たえてでかけた。

(引用元:「平原の町」コーマック・マッカーシー/黒原敏行 早川書房 P280)

 結局出かける。

「平原の町」は、ストーリーの主軸はジョン・グレイディとマグダレーナの悲恋である。
 だが「すべての美しい馬」における「馬」がそうだったように、「平原の町」のマグダレーナとの恋は(というよりマグダレーナ自身が)ジョン・グレイディの魂がどういうものかを表しているに過ぎない(※2)
 野生の気高い魂を持つジョン・グレイディが、脈々と積み上げられた歴史が形成する強固な枠組みによって押しつぶされ殺される。
「越境」の物語において、「運命に干渉できない観測者」であることを宿命づけられたビリーは、「越境」で弟のボイドを失ったように、「もう一人の弟」であるジョン・グレイディが運命に立ち向かい、無惨に殺されるのを見ていることしかできない。そういう話である。

「平原の町」のラストで、ビリーはジョン・グレイディを何とか助けようとする。「大丈夫だ、俺が何とかする」と必死に言うビリーの姿が滅茶苦茶エモく、胸を打たれる。
 感情を極力排した硬質の文体で事実だけを淡々と描写する。
 普段はそんな文章を書くマッカーシーが書いたとは思えないような展開であり、シーンだ。

「ブロマンス」という語を見かけても興味を持たず通り過ぎていたため、自分にはまったく縁がないジャンルだと思っていた。
 自分でも知らないうちに読んでいたんだな。

(※1)クリスがゴーディに「お前が自分の才能を信じ続けられるように守ってやりたい」というシーン。原作にしかなかった気がする。
(※2)あくまで自分の解釈の定義ではだけど。
(※3)マグダレーナはジョン・グレイディの「囚われている魂の一部」と見るのが妥当だと感じる。だから理由もなく、ひと目見ただけで恋に落ちる。「すべての美しい馬」の「馬」が持ち主の魂の暗喩であるのと同じである。

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