女性をエンパワーメントする田滝ききき「タワマンで不幸にならない方法」が好きすぎる。
◆女性の可能性を抑圧する「ガラスの天井」との戦いをコメディで描く。
この話はタワマンをモチーフにして「女性が社会において求められる規範や受ける抑圧」をテーマに据えて描いているコメディだ。
「タワマンで不幸にならない方法」と同じテーマを描いていた「セクシー田中さん」では、物語の序盤、女性を抑圧する「ガラスの天井」の話が出てくる。
「タワマンで不幸にならない方法」のいちごも「セクシー田中さん」の朱里も、「女だから」という理由で自分自身の能力を発揮する基盤を持てなかった。
いちごも朱里も、自分の力で自分の望む人生を生きたいと考えていた。
だが「女性は結婚して夫の庇護下に入るのだから、学歴も就職も重視しなくていい」という圧力を周囲から受け、そう生きていくしかない状況に追いやられる。
朱里もいちごも自分たちに押し付けられた価値観に沿い(沿わざるえず)「女性は男に選ばれることによって、社会における自らの状況を良いものにし安定させるしかない」という枠組みの中で最善を尽くすようになる。
「女という属性を理由にして、公平な環境を与えられなかった」と叫んでも、それは言い訳としか取られず一顧だにされない。
その枠組みを拒否して生きて、社会から脱落したとしても誰かが助けてくれるわけではない。
自分たちが与えられたもの、使えることができるものによって、自分の人生を生き抜くしかない。
そうわかっている。
◆藤村いちごは安易に共感や同情を寄せつけない「イタくて嫌な女」である。
自分が「タワマンで不幸にならない方法」が凄く好きな理由はいくつかあるが、ひと言で言えばフェアなところだ。
いちごには「女性ゆえに親から差別された、抑圧された」という同情すべき背景がある。
だがそれは他人にはわからないし、わからなければならない義務もない。いちごも他人の「傷つき」はわからないから、お互いさまである。
「他人の評価も含んだ公平な視点」によって、いちごは主人公にも関わらずとてつもなく打算的で、呆れるほど俗っぽく性格が悪い女性として描かれている。
周囲(特に同性)からの評判は最悪だ。
「女性だから」という理由で自分も抑圧されたのに、お茶くみをしたり女性らしさを強調したりして、むしろ表面的には従来の性規範に乗っかるような言動を取る。そのほうが自分にとって得だからだ。
「同情すべき背景」があるからと言って、それひとつで共感を呼ぶようなキャラではない。
当然のように色々なことをやらかし痛い目を見るし、時にぐうの音も出ないほどの正論でやり込められる。
個人の願望と社会の規範は、基本的に対立するように出来ている。
個人をむき出しにすれば、社会から強い反発や抑圧、批判を受ける。
周りの目を気にせず「タワマンに住みたい、どんな手を使ってでも」という偏った価値観をあからさまにし、その価値観のみに重きを置いた言動に終始すれば、周りからは当然白眼視される。
「いちごをイタイ存在」として見る「他人(社会)の目」が、きちんとストーリーに入っている。
◆「タワマン」という自分の価値観が、一切ブレないところがいい。
自分がいちごがとても好きな理由は、これほど他人からの批判にさらされながら、自分の価値観が一切ブレないところだ。
「自分の価値観が一切ブレない」というと自己主張が強いという意味で捕らえられがちだ。
そうではなく「他人に対する評価が、自分の価値観一点のみを軸にしていて、他の評価や自分の好き嫌いに左右されない」
いちごは一話で恭子にド正論でやり込められているのにも関わらず、恭子が青木(男)に雑に扱われて自信を無くしている時は「それは違う。あなたは凄いんだ」とエールを送る。
いちごにとって「男(他人)に評価される」のは、タワマンに住むための便宜的な方法に過ぎない。「男に評価されること」ではなく、「タワマンを手に入れること」が大事なのだ。
そのいちごの価値観では、自分の力でタワマンを手に入れた恭子は恰好いい存在なのだ。自分を正論で説教した人間だろうが、外見が「冴えないおばさん」だろうがそんなことはまったく関係がない。
他人の評価軸はまったく気にせず、自分の中にある価値観だけでもって、相手がどういう人間かを見て判断する。相手が自分をどう思っていようが(例え嫌っていようが、見下していようが)自分の内部の価値判断には関係がなく、まったくブレない。
◆男にとって「無能力が悪」であるように、女性にとっては「愛されないこと」が悪である。
朱里やいちごはわかりやすくその枠組みの中に追いやられているが、女性という属性自体が「女性としてどういう存在か」が社会的な地位につながる面がまだまだ強い。
「女性ならではの感性」という言葉や容姿に対する言及、夫の社会的地位によって自分の地位も決まってしまうなど、未だにそういう残滓が残っている。
だから男(他人)に選ばれず「女性としては価値がない」という扱いを受けると、不安になり自信が揺らいでしまう。
弁護士の資格を持って自分の力を発揮して生きている恭子は、社会的に見れば立派で凄い人だ。
それなのに、なぜこんなにも簡単に自信を失ってしまうのか。
「愛されるべき存在でいなければいけない。そうでなければ価値がない」
「そのためには自分(の主張や能力)を抑えなければならない」
「愛されないことは、無能力以上の罪である」
恭子も含めた女性が縛られてるこの規範を、いちごは物語開始時点から打ち破っている。
「他人(男)から女としての価値を認められないからと言って、それが何だ。そんなことよりも自分の能力によってタワマンに住む=ガラスの天井をブチ破るほうが、よほど凄いことなんだ」
「例え周囲から煙たがられ馬鹿にされても、自分の持てる力をもって自分の欲しいものを手に入れる」
そう力強く断言するいちごは、「タワマン、タワマン」と連呼し俗で滑稽なことばかり言っているにも関わらず、自信に満ちて輝いて見える。
「タワマンで不幸にならない方法」の一番いいところは、ここに書いたようなことをまったく気にしなくても、コメディとして面白いところだ。いちごの本音ダダ漏れの言いたい放題の言動を見ているだけで元気が出る。
これからも周りから正論をぶつけられ呆れられながら、他人(社会)から見れば俗で打算的で呆れるほど滑稽な、自分のみの価値観を貫いてタワマンに住み続けるために邁進して欲しい。
◆余談:青木について
青木が恭子のヒモで居続けるためには、いちごが言うように「ケア能力」を提供すべきだった(家事が苦手なのは仕方がないが、少なくとも恭子が「止めて」と言った「他の女性を連れ込むこと」は止めるべきだった)
いちごが指摘しているのは、ヒモであることの是非ではない。
青木の「ヒモとしての心構えの甘さ」を指摘している。だから「ヒモとしてどうか」という基準で(ハリガネムシかコバンザメかという視点で)自分と比較しているのだ。(こういうブレなさ、公平さがいい)
ケア能力、家庭内管理能力は長い間女性に割り振られていた役割であり、いちごも「タワマンに住む男」と一緒になるために最大限その能力を磨いてアピールしてきた。
いちごから見ると、青木は「ひどい男」なのではない。「ヒモとして落第点」なのだ。
それにも関わらず「ざまあ」としてスッキリしないのは、青木がケア能力を十全に発揮したとしても、女性とは違い結局は「ヒモ」と言われ社会的に貶められるからだ。
「セクシー田中さん」でも出てきたが、女性の可能性を抑圧するものは反転して「社会で能力を発揮できない男」を強力に排斥する。
社会的に恵まれた立場にいる恭子が、自らの能力を発揮する機会を持てなかったいちごに放った「正論」のように、いちごが青木に放った「正論」もまた、男にとっては正論とはなりえない。
女性にはない障壁が存在しているからだ。
青木の表情や捨て台詞に、そういったことが現れているように思える。
また出てくるかな?