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「サバルタンは語ることができるか」は何を語っているのか。

 前回の記事で「ドラマの中に社会問題を見出すという前提で書かれた記事が、社会によって周縁に追いやられた子供たちの問題をスルーして、『男子高ワチャワチャノリが大好きなホモソドラマというのも一理ある』と言っている件」について言及した。
 その時に、そう言えば同じことに滅茶苦茶ブチ切れていた人がいたなあと思って、「サバルタンは語ることができるか」を思い出した。

*以下は自分の読解に基づいた感想なので、気になる人は元の本を読むことをお勧めします。

「サバルタンは語ることができるか」は、インド出身の文芸批評家でフェミニストのスピヴァクが西洋知識人の西洋中心主義を批判した本である。
 哲学特有の独特の固い言い回しで一読すると凄く読みづらいのだが(特に第一部)、余り細かいことは気にせずに大意だけを取るとスピヴァクの気持ちが伝わってくる。

 この本でスピヴァクは、西洋の知識人たちに「お前ら、どの立場でモノを言っているんだ?」と言っている。
 冷静でロジカルで知的な文体でつづられた文章にも関わらず、伝わって来るのは↑の口調で放たれた強烈な怒りである。

「サバルタンは語ることができるか」は以下の四つの部分からなっている。
(1)フーコーとドゥルーズの対談「知識人と権力」への批判
(2)エピステーメー(知)の暴力及びサバルタンの定義について
(3)西洋の知識人が西洋中心主義から逃れるためにどうすればいいか。
(4)サバルタンが語れないのは、どのような構図においてか。

(1)の部分は哲学的な文体、用語を多用していて、(2)~(4)より読みにくい。
 ただこの本の一番の読みどころは、やはりフーコーとドゥルーズ(特にフーコー)という哲学界のビックネームを批判した(1)である。
(1)の部分が(2)~(3)より難解な言い回しが多いところに、「相手の文脈を使って、当の相手の欺瞞を指摘しよう」というスピヴァクの気概を感じる。

 以下は(1)~(4)までの自分が読み取った限りの要約である。

(1)
 西洋の知識人たちは「自分たちは欲望するもの(主体)ではない」として自分たちの存在を透明化(公平中立化、普遍化)する。
 その上で「(透明化した)自分たちは、『個々の欲望を持つ他者』を知らなければならない」とする。
 しかし彼らは、自分たちの中にある欲望(西洋中心主義)に無自覚なため、西洋中心主義的思考(価値観)に基づいて「他者」を作り出してしまう。
 彼らが自らの内部の欲望(西洋中心主義)を自覚せずに作り出した「他者」は、彼らの影に過ぎない。
(例:彼らが「労働者」という「他者」について語る時、それは自国の労働階級のことである。その語りの中ではグローバル資本主義における国を横断した分業制による搾取の構図は組み入れられていない)

 エドワード・W・サイードはフーコーにおける権力概念を批判して、それはフーコーにあっては魅惑的でいっさいを神秘化してしまうようなカテゴリーと化しており、「階級の役割、経済の役割、蜂起と反乱の役割を隠蔽する」結果を招いていると指摘したが、この批判はいまの場合はきわめて適切である。
 わたしはサイードの分析に加えてさらにひとつ、そこでは権力と欲望の密やかな主体の存在が知識人たちの透明性によってマークされているという点を指摘しておきたい(略)
 ここまでの論述でわたしが示唆してきたのは(略)批評家が制度的に負っている責任を無視しているがゆえに欺瞞的である、ということであった。
 この奇妙なことにも否認の言葉によって(知識人の)透明性の中にいっしょに縫いこまれてしまっている主体/主体は、労働の国際的分業の搾取者の側に属している。
 現代のフランス知識人たちには、ヨーロッパの他者の名指されることのない主体のうちにどのような種類の権力と欲望がやどっているかを想像することは不可能なのだ。
 かれらの読むものは、批判的なものであれ無批判的なものであれ、そのすべてが、ヨーロッパとしての主体の構成を支持ないし批判しつつ当のヨーロッパの他者を生産する論争の内部にとらえこまれてしまっているというだけではない。
 そのヨーロッパの主体を構成するにあたっては、そのような主体がそれの道程をそれらでもって備給し占拠する(覆いつくす?)ことができるようにと提供されたテクストの諸成分を消し去るために、多大な配慮がなされたのでもあった。

(「サバルタンは語ることができるか」G・C・スピヴァク/上村忠男訳 みすず書房 P27-P29)

 これまでの歴史において取捨選択して残されたもの、その残された文献の解釈もすべて「ヨーロッパの文脈」で構成されたものだから、その文脈外にいる「本当の意味での(ヨーロッパの)他者」を見つけるには、その文脈の存在を意識しなければならないはずだ。
 ただ「それは普遍的で中立的な文脈ではなくヨーロッパの文脈」であることを気付かせるようなものは消し去られているから、あなたがたはその存在に気付くことができていない。
 権力側である「国際的分業の搾取者の側」にいながら「私は欲望を持たない透明化された存在(主体なきもの)である」と言っているのがその証拠だ。

と言っていると自分は理解した。
 滅茶苦茶キレているがな。

(2)
(1)で指摘した通り、西洋知識人たちは自らの欲望に無自覚に、欲望に沿った「他者」を生み出し、あたかもそれが「他者を知ることだ」と言っている。これはエピステーメー(知)の暴力である。

 そのようなエピステーメー(知)の暴力についての利用可能なもっとも明確な実例は、植民地主体を他者として構成しようとする、遠く隔たったところで編成された、広範囲におよぶ異種混交的な企図である。
 この企図はまた、当の他者が危うくも主体ー性を獲得するかに見えるときには、逆に、その痕跡を抹消しようとする。(*)

(「サバルタンは語ることができるか」G・C・スピヴァク/上村忠男訳 みすず書房 P30)

 彼らにとっての「他者」であるサバルタンは、歴史の文献上にその声は残っておらず、ましてや彼らの価値観によって取捨選択した文献や文献への解釈によってその声を聞くことは出来ない。
 サバルタンとは、そういった抑圧者との差異によって浮かび上がる存在である。

(3)
 では、西洋の知識人が「西洋中心主義」から逃れるためにはどうすればいいか。
 デリダのグラマトロジーの理論がヒントになる。
 常に自らの欲望の所在を自覚し、自らが何者であるか(主体)を確認しながら言葉を紡ぐことが重要である。(自分もまた、他人にとっては「固有の欲望を持つ主体→知られるべき他者である」という自覚が必要。そうすることによって、初めて「他者」は自己の影はなく「他者」となる)

(4)
 サバルタンが語ることができないのは、どのような構図においてか。
 例えばインドの風習であるサティーは、ヒンドゥー教の文脈においては個人及び共同体の文脈が強く、その文脈は複雑に錯綜している。
 それを宗主国たるイギリスは法的(公的)な文脈の中に一元的に取り入れてしまった。
 歴史の経緯の中で、サティーは「白い男たちが茶色い男たちから茶色い女を救う」もしくは逆の「その土地の信仰による殉教」という両極端な文脈に回収されてしまう。当の本人である、寡婦であるサバルタン個人の声(文脈)は、二つの文脈の狭間に落ち、かき消されてしまっている。

「自身を透明化(欲望を持たない、主体を免責)した存在にし、その視点で以て『他者』を知り得る、知ったと考えること」
 こういう構図の中では、サバルタンは語ることはできない。
 何故ならこの構図の中で西洋知識人たちは、「欲望がない、ゆえに公正で普遍的標準的な価値観の自分が見つけた『他者』」が本当に「他者」であるかを疑うことがないからだ。
 だから「労働者」という「他者」について語る時に、グローバル資本主義における「国際分業制」という枠組みを無効化してしまい、自国の労働者たちとは違う構図の中で搾取されるポストコロニアル(周縁)の労働者たちの語りを聞くことはない。
 こういう図式の中でサバルタンは沈黙を強いられている

 スピヴァクはフーコーとドゥルーズの対談における言葉ひとつひとつに疑問を述べ反駁を加え、時には痛烈な皮肉を飛ばして、西欧哲学界の巨人二人の姿勢がいかに欺瞞に満ちているか、根本から不誠実であるかを明らかにしていく。
 自分はフーコーとドゥルーズの対談は読んでいないのでスピヴァクの批判がどこまで妥当かはわからないし、細かな主張については賛成できないものもある。
 ただ賛否はおいておいても、一体自分が何に怒っているかを相手にわかるように伝える理知的なスピヴァクの姿勢、その冷静な語り口を以てしてもにじみ出てくる押さえられない憤怒に共感して強い印象を受けた。
 この本の一番良いところはそこだ。
「凄く読みにくいな」と思いながら読んだのに、思い出して読み返したくなったのはそのせいだと思う。

※自分もフーコーの「狂気の誕生」に代表される「正‐狂の境い目は社会が意図的の構築したもの」とする脱構築の理論は、マイノリティのアイデンティティの否定を正当化することにつながりそうで(同化政策とか)危うくないかと思っていた。この辺りちゃんと理解していないので、あとで読もうと思う。
「精神疾患や性的マイノリティというテーマでそういう理論を主張するのはいいが、ポストコロニアルの人々に相対する時に『西洋知識人』という自己の立場を透明化するのは欺瞞では」と言う指摘については「おっしゃる通り」としか言いようがない。

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