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「俺が本気を出せば」という脳内妄想によって、坂道を転げ落ちるように悪人になってしまう。そんなしょうもない自分も時々許したくなる。

 久しぶりに「郵便配達は二度ベルを鳴らす」を読んだ。
 十代後半の時にハマって何度も読んだ。当時のミステリーのベストはこれか「八百万の死にざま」である。

「郵便配達は二度ベルを鳴らす」は文体がハードボイルド、内容はノワールである。

 主人公のフランクは若くて様子が良くてちょっと悪ぶっているから女にモテる。要領がいいから大抵の場所で一目置かれたり、重宝がられてうまくやっていける。
 だが一か所にとどまって地道に何かをすることができない。
 目端は利くし頭もいいが、長い目で物事を見通すことはできない。体系的に努力をすることもできない。
 多少、利口だから他人(社会)を舐めている。そのしっぺ返しを食らうまで、自分が社会を舐めていたことにさえ気づかない。
 
いつもここではないどこかに行きたいと思っている。だがどこに行きたいのかはわからない。
 今の自分ではない自分になりたい。でもその方法がわからない。
 
そういうそこら中に佃煮にしそうなくらいいる人間である。

 市場をうろつく合間に、一ブロック先のビリヤード場にも顔を出した。
 ある日、一人でショットの練習をしていると男を見かけた。キューのかまえ方を見れば、初心者だとわかる(略)
 二五〇ドルでホットドックの屋台が出せる。三五〇ドルあれば楽に暮らせるだろう。
「どうだ、ビリヤードをやらないか」(略)
 ゲームを始めた。
 最初の三ゲームか四ゲームは相手を勝たせた。自信を持たせるためだ。
 俺は、おかしいなといった風に首を振り続けた(略)
 俺はここから本気を出した(略)
 なのにビリヤード場を出たとき、やつは俺の二五〇ドルと(略)三ドルの時計を懐に入れていた。
 俺のビリヤードの腕は悪くない。
 ただ、悲しいかな、やつのほうが一枚上手だった。

(引用元「郵便配達は二度ベルを鳴らす」ジェイムズ・M・ケイン/池田真紀子訳 光文社 P60‐P62/太字は引用者)

 このビリヤード場のシーン、何度読んでも笑ってしまう。
「俺が本気を出せば」物事は、たぶんうまくいく。だがそれは短期的なことではない。
「本気」とはその場で始まるものでも、その場だけで完結するものでもない。だから「本気」なのだ。
 もちろん何の準備も見通しもなく、その場少し力を出しただけで華々しい結果を出せる人間もごく稀にいる。
 しかし大多数の人間はそうではない。正確には大多数の人間は「自分はそうではない」と思っていたほうが結果的にうまくいく。

(たぶん)多くの人がそうであるように、自分もこういうことを生きていく中で、けっつまづいたり痛い目を見ながら学んだ。
 この年まで生きてきて思うのは、そうやって教わってきたことが「概ね正しい」ということだ。

 でも時々、世の中を舐め腐って信じられないほどアホなことをやらかして、「そりゃお前そうなるだろ、自業自得だよ。何でそんなこともわからないんだ?」と言いたくなるような自分も、「しょうがないよ、それが自分だもの」と言いたくなる時がある。

「郵便配達は二度ベルを鳴らす」の主人公フランクは、やることなすこと滅茶苦茶だ。
 二メートルくらい先の未来のことも考えていない。
 行く先々で警官と揉めて、流れ流れてたどり着いた場所で人妻と秒で不倫関係になり、余り考えず殺害計画を立てて殺してしまう。
 自分では完璧な計画だと思っていたが、プロである検事からすぐに疑われて、計画の穴を突かれて詰められたら恋人であるコーラを売ってしまう。
 殺害した夫の保険金を手に入れてもマトモに働かず、その場にいるのが嫌になって他の女をくどいて逃げ出す。
 それがコーラにバレて「お前が殺したとばらしてやる」と脅されて、ついにはコーラを殺してしまう。

 フランクはとても弱い人間で、弱いから目の前のことでしか物事を判断できない。目の前のハードルさえ超えればうまくいく、問題はそこだけで後はすべてがうまくいくと無邪気に信じ、その浅はかさによって常にしっぺ返しを食らう。
 本人もそれはわかっている。
 だが自分を根気よく変えようとするのではなく、ただ状況を変えるために違う場所へ行こうとする(それがまたコーラの怒りを買って追いつめられる)
 表面上のことはうまくこなせる。なまじそうだから反省もせず、目に見える状態が変わっただけで「新しいシチュエーションだ」「今度こそ」と思って同じことを何度も繰り返す。

 コーラが死んだのは、フランクの一人称描写では「事故」になっているが自分はかなり怪しいと思っている。
 フランクは本当にコーラを愛していた。その気持ちに偽りはなかった。
 だが追いつめられた一瞬の判断の時に、自分の保身のほうへ気持ちが流れてしまう。コーラへの愛情は、フランクの行動に何の意味ももたらさない。
 コーラの愛情を信じる気持ちの強さも、長い目で見たらコーラを殺せばまた窮地に陥るという考えることができる強さもないからだ。
 結果だけを見れば「そんなものは愛しているとは言わないだろう」
 その通りなのだ。

 自分が「郵便配達夫」で一番好きなシーンは、フランクが自分が殺したニックの葬式で泣くシーンだ。
 このシーンは何度読んでもじんわりくる。

 穴に下ろされるギリシャ人を見ていたら、つい泣いてしまった。
 葬式で賛美歌を歌うと必ず涙が出る。
 故人のことが好きだった場合、たとえば俺にとってのギリシャ人みたいな場合となるとなおさらだ。
 式の最後に、ギリシャ人が何度も歌っていたのと同じ歌を全員で歌った。
 それが俺にとってのどどめの一撃になった。
 持ってきた花束をしきたりどおりに供えるだけでせいいっぱいだった。

(引用元「郵便配達は二度ベルを鳴らす」ジェイムズ・M・ケイン/池田真紀子訳 光文社 P155/太字は引用者)

 妻を秒で寝取って殺しておいて好き。
 ふざけているとしか思えない言い草だ。
 フランクはこういう人間なのだ(だからコーラも「その瞬間の見通しで」殺したのでは、と感じる)
 道義的なことはおいておいても、あんな穴だらけの計画で逃げおおせると思うなんて馬鹿だとしか思えない。

 でも自分が社会で生きていくために、どこかに押し込めたそんな身勝手で世の中を舐め腐っている、信じられないほど考えなしでアホな自分を、本当にたまに引っ張り出して許したくなる。
「わかるよ、殺したけれど好きだったんだよな。どっちも本当なんだよな。身勝手で考えなしで、鼻の先二メートルの不安にも耐えられない、どうしようもないろくでなし。お前はそういう人間かもしれないけれど、ほんの少しだけ『本当のもの』を持っているんだよな。他人にとっては何の意味もないものだとしても」
 そうたまに確認したくなるのだ。

「自分がどうしようもないと思う自分」に出会って許せる。
「郵便配達夫は二度ベルを鳴らす」は、自分にとってそういう作品なのだ。

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