「『他人にとってはマイナス200点』だとしても描く。そんな『どうかしている人』に用がある」
先日、「さみしがり魔女は崖の上」という作品を読んだ。
巻末に掲載されている「編集部からのコメント」を読んだときに、すぐに新人漫画賞の審査員をした時の諌山創のコメントを思い出した。
この言葉が凄く好きなのだが、特に「漫画は」とか「創作は」ではなく、「僕は」というところが「さすが! 好き好き好き滅茶苦茶好き(×10)」と思ってしまう。
「進撃の巨人」の序盤は、絵は下手だし、会話や演出もぎこちない。キャラの描き分けもイマイチだし、ストーリーはどこにも希望がない。
それなのに、読んだ瞬間に衝撃を受けた。
「面白い」とも違う。脳天を打ち抜かれたみたいに「凄い」と思った。
「この話は、現実よりも本当のことを描いている」
自分が「進撃の巨人」から受けた衝撃は、こういうものだった。
元々創作は「現実よりも本当のことを描くもの」だと思っているが、ひと目見たその瞬間に、理屈よりも速く「本当のことを描いている」という体感がきたのは「進撃の巨人」くらいだ。
「さみしがり魔女は崖の上」は、一本の話としては面白かった。
選評も「レベルが高い」という話から入っており、読んだ多くの人が80点の満足度を得られると思う。
ただこの話は、自分にとっては「いいお話」異常(誤字にあらず)のものがない。
選評を読んだ限りでは、審査員もそこが惜しいと思ったのだと思う。
そう銘を打っているわけではないので作品が悪いわけではないのだけれど、メインキャラの外形がおねショタなので、それを期待して読んでしまった。
自分にとっておねショタは単純に「年上女性と少年の組み合わせ」ではない。
子供ゆえの無邪気さに大人の女性が翻弄されるでもいいし、その未熟さを年上女性が優しく受け止めるでもいい。子供である無力さを女性が守るでもいいし、この全部を組み合わせてもいい。
「外見が少年であることが大事なのではなく、少年という属性が持つ要素、そこから必然的に派生する関係性」が重要なのだ。
「竜とそばかすの姫」は、あれだけラストまでのストーリーに文句をつけているのに、最後の最後の恵と鈴のおねショタの組み合わせが良かったので、感想が「けっこう良かった」になった。
二人の関係は、「年上女性と少年の組み合わせだからいい」のではない。
自分の無力さやそれを抑圧せざるえない理不尽さへ怒りを子供ゆえに竜になって暴れることでしか発散できない恵の苦しみや、そこから予想できる恵の置かれた状況の困難さ、それを理解し受け止められる鈴の包容力、そしてその関係性に基づいて現実では子供ゆえに無力な恵を大人(に近い)鈴が守るという構図がいいのだ。
「外形が少年でも中身が大人なキャラ」では、自分の中では少年である必然性がほぼない。おねショタの萌えもない。
創作の好みは千差万別だし、作るほうにも色々な考え方がある。結局は多くの人が平均的に求めるものを作るほうが売れるし、正解ではという考え方もあると思う。
でも自分は、諌山創と同じように「多くの人にとっての80点として作られたものより、他人とってマイナス200点でも自分の内部にはこういうものが存在している。だからそれを描く」という創作に用がある。
この人しか描けない、この作品でしか得られない。
贅沢かもしれないが、そういう創作をたくさん読みたいのだ。