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【ゲーム考え事】ライフ(資源)


1.資源としてのライフの本質

 ライフという資源は好きだろうか。筆者はかなり好きだ。多くのゲームで登場し、体力、HP……様々な名前で呼ばれるが、実体としては同じ資源であると言えるだろう。

 その実体が何かといえば、敗北点と言えるようなものだ。ある一定以上点数が溜まってしまうとゲーム(ここで言うゲームは、1プレイにも近い概念で、特にデジタルゲームの場合、その期間がどれぐらいなのかはゲーム構造によって大きく変化する)で敗北してしまう。RPGならば、最近のセーブデータや村からやり直しになるかもしれないし、ボードゲームなら脱落してしまうかもしれない。また、ライフを削り合う2人対戦のゲームの場合、相手の勝利点、と置き換えることも往々にして可能だ。

 ここでは、様々なゲーム構造におけるライフについて考えたい。なので、上述したような敗北点としてのライフについて考えたいと思う。「レス・アルカナ」みたいな『木材』と同じ感じで『ライフ』という資源があるようなゲームのライフではなく、敗北点について扱うというわけだ(敗北点という言葉は誰かが使っていると思ったのだが、調べてみると意外に使われていないようだ……)。



2.敗北点の閾値

 この資源の何が気に入っているのかと言えば、普段は基本的に何も寄与しないところだ。HPが1になっても、HPが最大でも、基本的には何もしない。もちろん、アビリティや装備でHPに関連したバフが付くような形も多いが、根幹のシステムとして採用しているゲームは少ないだろう。あったとしても、体力が減っている時に強くなるといった形で、減っているほど弱くなるような仕様はほとんど見受けられない。ホラーゲームやシミュレーションゲームなどでは、体力が減るほど歩くのが遅くなる、と言った実装が比較的多いように思えるが、これはゲームというより、シミュレータとしての機能が重視される、という点が大きいだろう。

 よく言われるように、リアリティを考えれば、これはおかしなことだ。息も絶え絶えなのに、そんなことはお構いなしに、正確無比な動きができるのだから。しかし、ゲームとして考えると、その方が面白くなる。

 ゲームと言うのは、閾値で構成されていると言っても過言ではない。たとえば、セットコレクション(何かをセットで集めるとボーナスがある)もそうだし、競り(エリアマジョリティとか)もそうだ。金銭で装備品を購入するのだってそうで、MPを消費して魔法を使うのも、スタミナを消費して回避行動を行うのも、閾値としての側面がある。一定値以上になれば利益が得られたり、選択肢が増えたりするが、それに1でも足りないと、それが得られない。だから、1の価値が大きく変わるのだ。閾値を超えた後の+1には意味がないかもしれないし、閾値直前の+1にはかなりの価値がある。閾値から大きく離れている時の+1は……という形になる。閾値が存在しなくなると、このようなダイナミクスを生み出すのは難しい。

 そう考えると、ライフは、非常に大きなダイナミクスを生み出す。なんといっても、たくさんあっても何もしない癖に、0になった途端、全てが終わってゲームに敗北してしまうのだから。

 たとえば、「マジック:ザ・ギャザリング」において、ゲーム開始時の1点のライフはあまり顧みられないものだ。攻撃は簡単に通ってしまうし、呪文を唱える代償としても簡単に消費されてしまう。しかし、お互いのライフが5点を切るようになると、その1点のやり取りは非常に重く、些細なミスや読み違えが決定打になることも多い。そして、終盤のライフというのは、軽く見られがちな序盤からのライフのやり取りの結実として現れる。このライフの価値が大きくなりがちなスタンダードにおけるリミテッドが上手いと言われるプレイヤーは、この価値の見積もりが非常に上手く、序盤からライフを調整していき、終盤の選択肢を増やしたり、逆に相手の選択肢を狭めることで勝利を勝ち取っていたりする。

 こういった面白さは、ライフが何もしないのに、全てを無に帰すことがあるからだ。勝利点もその逆ではあるが、多ければ勝ちに近づくだけで、一気に全てが崩壊するような感覚を得られるようなゲームは少ないだろう。



3.失敗に対する許容量としてのライフ

 ただ、敗北点としての機能は同じだとしても、その敗北点が何を指しているのか、という点はゲームの構造によって異なる。

 たとえば、古典的なアクションゲーム、「スーパーマリオブラザーズ」を考えてみると、体力は最大2でこれがなくなると、残機(これはメタ的な体力と言える)が減るもの、と捉えることができるだろう。

 アクションゲームの場合、『操作』が存在する。つまり、判断の後、その『実行』ができるかどうか、という点が求められ、結果として、それに対する『失敗』というフィードバックが存在しやすい。

 これは『実行』が求められる音ゲーのようなジャンルでも同じで、『失敗』に対する許容量をライフが示している、と考えることができる。

 ただ、失敗に対する許容量には、幾つか問題点がある。許容量を大きくし過ぎれば、緊張感がなくなり、小さくし過ぎれば、理不尽に感じられる。『実行』に対する個人の力量には差があるため、ここを適切に調整することは難しいことだった。

 それに対し、現代的なアクションゲーム、たとえば、「モンスターハンター」シリーズや「ダークソウル」などでは、ライフを一時的な失敗許容量として、全体としての許容量は増やす、という形を取っている。

 どういうことかと言えば、1ゲームにおける回復薬の量を制限する、というやり方だ。その所有量に上限を設けている。

 これにより、今、表示されているのは、一時的な体力に過ぎず、回復薬を含めた体力こそが、本当の体力になっているのだ。特にソウルライクでは、回復薬を単純な消費財とせず、セーブポイントで回復する資源となっていることが多い。これにより、一時的な体力/全体的な体力という実体がよくわかる実装になっている。

 この実装には様々なメリットがある。

 一撃で体力の半分以上も減るような強力な攻撃を実装しやすい。それでも理不尽に感じにくくなる。回復薬の上限を増やすことをゲームの成長要素とすることもできる。また、回復には回復行動が必要になるので、どこでその回復行動をするのか、という駆け引きも生まれるし、中途半端なダメージを喰らった後、そのまま続行するのか、回復量が無駄になっても回復をするのか、という選択を迫ることができる。

 「モンスターハンター」シリーズの赤体力や「Bloodborne」のリゲイン、「SEKIRO」の二重体力にも近い体幹システムなど、遊びの幅を広げることもしやすく、そこに駆け引きを生じさせることもできる。

 回復薬が補給されるシステム(「DARK SOULS」のエスト瓶や、「モンスターハンター」の牧場など)が同時に実装されていることが多いが、これは中長期的な資源管理としての回復薬ではなく、全体としての体力の表現として回復薬が実装されているからだ。



4.資源管理におけるライフ

 では、資源管理におけるライフについて考えてみる。こちらは、『実行』を求められないゲームで採用されることが多い。この場合、敗北点であるという点を除き、資源の1種であり、失敗したから失われるのではなく、別の資源と交換したり、逐次減らされる資源であったり、というものだ。

 RPGにおける体力は、モンスターの攻撃などによって、適時減らされるものだ。そして、それを補う行動として、回復薬を使用したり、回復魔法を使用したりする。これは資源を管理していることになる。回復薬を使うということは、その分だけ金銭を使い、装備が弱くなっているかもしれないし、余分に稼ぎを行ったかもしれない。回復魔法を使うのは、戦闘中なら、攻撃の行動がその分できなかったことになるし、そうでなくとも、魔法の使用回数やMPを消費している。つまり、そういった別の資源を消費して、敗北点を減らし、敗北から遠ざける行為をしているのだ。

 この考え方は、カードゲームなどでも基本的には同じ、と考えることができる。ボードゲームもこうなっていることが多い。

 ただ、そういった中でも、いくつか違いがある。


 まず、デジタルゲームのソリティアである場合、その資源の変換は最終的にゲームプレイで取り返しのつかない資源であるか、リアル世界の資源にたどり着くことが多い。

 前者の場合、たとえば、最近の「ペルソナ」シリーズや、一部の「アトリエ」シリーズのゲーム内時間などだ。MPを回復する手段が非常に限られていることが多く、特に序盤は、アイテムが少ないこともあり、HPもMPもないから、それを回復するために、時が進む、ということもある。そうなると、日付が進み、それはゲームの不可逆的な資源を消費したことになる。こういった側面が強くなると、アナログゲームのソリティアに近くなるはずだが、実際にはゲーム時間が長いゲームに採用されていると、後半は何とかなることが多い。やり直しが手軽にできないから救済措置が用意されがちだ。

 後者の場合、たとえば、「ウィザードリィ」や「世界樹の迷宮」のような古典よりのRPGがそうであることが多い。結局は、レベルやアイテムなどを通じて、プレイヤー自身の資源(プレイ時間)を変換する形になる。現代では、プレイヤーの時間は貴重な資源であるため、これを無尽蔵に貪り食うようなデザインは流石に死滅しつつあるが、熱狂的なファンもいる。

 体力の資源をどのように位置づけるかは、ゲームの構造による。たとえば、「ファイナルファンタジーXIII」では、戦闘が終わるたびに体力が全回復することが話題になり、当時、RPGが易化している、と捉えた人も多かったように記憶しているが、実際はそうではない。製作コストやストーリーの問題でワールドが一本道の形式になり、いわゆるダンジョンのような形式でなくなったため、ゲーム全体の資源管理としての体力の側面が弱くなり、1戦闘あたりの資源として、体力を実装した、というだけだ。適切なゲーム体験のための実装は、そのゲームが何を目指しているかによって、異なる。


 マルチプレイヤーのデジタルゲームで『実行』を求めないゲームはさほど多くはないが、DCGなどは典型的なそれだ。この場合も、あるゲームに限定した敗北点のやり取りが行われる。ソリティアと異なる点は、メタ資源に変換できたり、中長期的な資源とはなりえないことが多い、という点だ。短い期間で、どのようなやり取りをするのか考え、それが次のゲームなどには波及しない。たとえば、RPGである戦闘で回復薬を使用すると、次の戦闘では回復薬が1つ減っていることになるが、DCGでライフを回復するカードを使ったからと言って、次の試合でそのカードが使えないわけではないだろう。ゲームのプレイサイクルがどのように構築されており、そのどこに体力という資源を位置させるか、という話になる。

 アナログゲームでもこのような立ち位置にあることが多い。そもそも、多人数戦であることが多いアナログゲームで、敗北点という意味の体力を実装しているゲームは少ないが……



5.記事にかこつけた宣伝(宣伝)

 「ファイナルファンタジーXIV」というMMORPGがあり、それにも体力や回復魔法が実装されている。そして、興味深い点として、高難度では時間制限が用意され、それまでに敵を倒さなければゲームオーバーとなる実装が挙げられる。そもそもの数値設計として、回復魔法を連打していれば、極端に大きな失敗をしなければ、体力がなくなることはない。だから、低難度では、基本的に時間をかけていければクリアできることが多い、それだけ、強力な回復魔法が用意されている。

 しかし、高難度では、そのような回復魔法を使う、ということが、そのまま、その分攻撃が出来ないことに繋がり、時間切れになってしまう、というわけだ。よって、根幹的な資源としては、『時間』が用意され、プレイヤーの『実行』による効率の高低はあれど、その『時間』をどのように分配していくのか、というところが肝になっている。


 筆者がデザインした「私は一人、ダンジョンで目が覚めた」というゲームも最終的にはこの『時間』という資源をどのように使用するのか、という点が問題になる。基本的に、ひたすら死なないように回復し、防御を固めればまず体力が0になることはない。しかし、そうなると、時間切れの前に指定の階層を登りきれず、結局、ゲームオーバーとなる。

 このような実装にする必要があり、本作では時間をカウントする必要があった。結果として、タイムトラックを使用し、プレイヤーの時間だけは相対的な差だけではなく、絶対的なカウントを行っている。と言うのが、以前の記事に一部書いていた、タイムトラックを実装した理由となる。

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