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【Board Game Design Advent Calendar 2024】ゲームが生み出す反応を意識すべきだが、固執する必要はない

 この記事はBoard Game Design Advent Calendar 2024の21日目の記事として書かれたものです。


 筆者の経験・技量・考察不足から、誤った情報を含んでしまっている可能性があります。誤りや不足している情報、ご意見等がありましたら、筆者のTwitterアカウントにご連絡いただければ幸いです。

 以下の文章は全て個人的な見解です。権利者の方々による指摘や、個人的な気付きによって、予告なく変更・削除する可能性があります。



前提

  • (狭義の)ゲームデザインに関しての内容。
    アナログゲームを中心として考えるとわかりやすいが、デジタルゲームでも本質は同等である。ただし、後者の方が広範な領域を扱うことが多いため、直接的な影響範囲は小さいと考えられる。

  • ゲームのエンターテイメント作品としての側面を強く意識した文章となっており、芸術的・商業的な側面などはそれほど取り扱わない。



結論

 端的に言えば、ゲーム(あるいは多くのエンターテインメント作品)は、なんらかの体験・感情・感覚など(理由は後述するが、ここではこのような反応をプレイイデアと仮称する)を再現するための装置であると言える。

 各要素を見ても、プレイイデアを理解することは難しいが、だからこそ、デザインする側はプレイイデアを理解して、それに沿ったデザインを心掛ける必要がある。

 一方で、必ずそれが行える、あるいは、そうでなければならない、という姿勢は、過度な自制を求めていると言え、現実的ではなく、そうでない立場から発せられたものが、時流を変えたことも多々ある。

 つまり、統合的にプレイイデアを実現するデザインが大事ではあるが、それらを過度に求めるべきではない。



概論

 ゲームはよく、プレイしてみなければわからない、と言われる。

 多くのゲーマーはその言説に同意するだろう。大まかな方向性や、その性質をルールやデータから理解することはできたとしても、実際にプレイした時の体験・感情・感覚などを完全に把握することはできない。

 しかし、どうして、そのような状態になっているのだろうか。

 たとえば、ルールやデータを読み取って、そこからプレイした時の体験・感情・感覚などを本当に呼び起こすことはできないのだろうか?


 結論から言ってしまえば、それは不可能に近いことだと考える。

 なぜならば、ゲームによって生まれる体験・感情・感覚などは、ゲーム全体の構造や、各メカニクス、それぞれのゲームの経済・状態が統合的に作用することによって、生まれるものであると考えるからだ。

 ルールやデータだけを見て、それを判断する、ということは、たとえば、脳の各細胞の反応や、その作用の機序だけをみて、意識全体を把握するようなものである、と言えるのではないか。

 では、そのような統合的しか表れないものを、どうやってデザインすればよいのだろうか?

 それに関して、まずは前提を固め、その上で網羅性はないものの、いくつかの例を挙げて考えることにより、この前提を確かめる。

 そして、その仮定を元にした結果として、ゲームをデザイン、あるいはプレイする時に求められる姿勢について考える。



前提の確認(ゲームの固有性と反応の再現性)

 まず、ゲームが、それをプレイすることによって、体験・感情・感覚などを引き起こすもので、それに再現性を持つ、という前提を確認する。


 あるゲームタイトルに着目した時、そのルールやデータを固定化されているだろう(ルールやデータが変更・追加されることもあるが、一般的にはそれらが変更されることすらも、ルールで規定されているだろう)。

 つまり、ある作品として同一性を保ち(それがTCGやソシャゲのような運営型ゲームであったとしても)、それが独立している(もちろん、拡張セットやMODのように依存性のあるゲームもあるが、何らかの区切りを持って独立した状態になれないゲームは、それだけを単体としてゲームとして見なすことはできないだろう)ことを考えると、それがそうなっているのは、もちろん、人間社会における利便上、経済上の理由も明らかではあるが、それ自身に固有の何かを持たせ、それが固定化されるからだと考えられるだろう。

 要は、ある作品における同一性・独立性は、それ自身が生み出す何かを固定するためのものである、と考えることができる。(デッキ構築などで、生み出す何かをプレイヤー側から干渉することができるゲームも存在するが、その幅もゲームが生み出した幅である)

 そして、これらの独立した概念的ゲームは、結果として、主観的ゲームを生成することになり、それは人間の脳内における統合的な情報として表れる(下記記事参照)わけであり、つまり、それを再現性を持って再生することこそ、ゲームの目的であると言えるのではないだろうか。

 たとえば、芸術作品などでも、最終的には人に鑑賞され(あるいはその存在自体が認知され)、その人の中に作用を引き起こすことを目的としているのと同じようなことであると言える。(作り出すこと自体に意味がある、という点もあるかもしれないが、そうするとそのゲームはプレイする必要性がないものになるわけであり、ゲームとして存在する意義がなくなる)


 まとめれば、あるゲームタイトルは、それに対応した体験・感情・感覚などを引き起こすために、同一性を保っている。再現性を持つ。

 この引き起こされる体験・感情・感覚などは、一般的に単に『体験』や『感情』などのように表現されることも多いが、それが過度に一側面だけを捉えたり、狭義の認識に収まってしまっていることがあるようにも筆者は感じている(もちろん、意図的にそのように認識を絞ること自体には問題がなく、問題となるのは無意識的に視野狭窄に陥ることだ)。

 たとえば、「数独」をプレイしている時の『体験』『感情』『感覚』と言い方をしてしまうと、それぞれが部分的な捉え方をしているように感じる人もいるのではないだろうか。

 『体験』と言うと、メタ的な環境や状況を含むようにも思えてしまうし、大仰にも思える。

 『感情』と言うと、局所的な瞬間だけを取り扱っているようにも思う。

 『感覚』と言うには、体感的でなく、複雑性があるような気もする。

 もちろん、これは言語による伝達を行っているため、個人差があるだろうし、日本語における語彙や文法上の問題なども含むかもしれない。

 ただ、このような複雑性のあるものであり、過度に既存の概念に当てはめる必要がない、ということを強調するために、ここでは、あるゲームをプレイすることによって、引き起こされる体験・感情・感覚などを統合的に取り扱うプレイヤーに主観的に生じる反応全般を指して『プレイイデア』と仮称する。この単語自体には意味がないので、それぞれが適切だと思える語句があれば、随時置き換えて読んでいただければ幸いだ。

 あるゲームタイトルは、このプレイイデアを再現性を持って、引き起こさせるために単独性を保っているとする。それではなぜ、各要素を個別にみるだけでは、プレイイデアを把握できないのかを、いくつかの要素を挙げることによって、考えてみたい。



各事例

メカニクス(多側面性と影響の強弱)

 各メカニクスを見た時、それを採用している理由や、それによって引き出されるプレイイデアは、統合的な実装により変化するため、それだけを単独で見て、評価することはできない。

 もちろん、たとえば、ワーカープレイスメントを採用しているゲームの多くが好きであり、そのメカニクスが好きだ、というように感じることはあるだろう。

 しかしながら、ワーカープレイスメントを採用していながらも、好きではないゲームはあり、その逆に、ワーカープレイスメントを採用していないにも関わらず、同じようなプレイイデアが得られ、好きになることもある。

 つまり、各メカニクスというのは、それ自体が単独で一定の作用を生み出すものではあるが、その影響は多面的であり、総合的な実装により、ある側面を強めたり、逆に弱めたり、ということが可能である。

 たとえば、上述のワーカープレイスメント単体だけをみたとしても、排他的なアクションドラフトに焦点が置かれていることもあるし、ワーカーを利用してアクションの選択をわかりやすくするというUI的な側面が強くなることもある。あるいは、ワーカーの増員と絡めて、強力な拡大再生産を表現するために実装されることもある。

 メカニクスそのものよりも、それによって何をなそうとしているのか、どのようなプレイイデアに貢献しようとしているのか、が重要なのだ。


 これは採用されるメカニクスの種類に限った話ではなく、それが組み込まれた時に、ゲーム経済に対して、どのような強さの影響を持つように実装するかに関しても、問題になる。

 たとえば、「アグリコラ」は、各カードにおけるゲームに対する影響が強く、ワーカープレイスメントのゲームを開始する前の、それらのカードのドラフト、あるいは、そのカード群のどれを使用するかどうか、という点がゲームに与える影響が大きい。これによって、プレイヤーによっては、ドラフトの結果を時間をかけて表現するためにワーカープレイスメントをしているだけ、と思う人もいるようだ。これはいささか極端な主張ではあるが、そう思わせるだけの影響力がある、ということだろう。

 一方、こういったカードが補助的に使用されるゲームもあり、全体に対する影響が小さいゲームも多い。

 当然のことではあるが、同じメカニクスを採用していたとしても、そのデータが全体の経済に対して、どれぐらいの影響力を持つかは異なる。


 各メカニクスの実装や組み合わせ、それらにより、ゲームへどのような大きさの影響を与えるのか、ということはプレイイデアを変質させる。これらは総合的、相対的であるから、それぞれを見るだけではプレイイデアを伺い知ることは難しい。



難易度(その作用と実装の方法)

 先ほど、メカニクスの強弱に関して言及したが、これは難易度にも同じことが言える。採用されているメカニクスなどが同等であったとしても、そのデータの強弱によって、プレイイデアは変質する。

 ここで言う難易度とは、ゲームのデータの強弱をプレイヤーが選択できるものとし、簡単のために、一人用ゲームの難易度を前提とする。

 個人的には、難易度にはいくつかの役割が存在すると考えている。


 第一には、障壁の高さだ。古典的な難易度とも言えるかもしれない。

 一人用ゲームの場合、プレイヤーはゲームに相対するわけだが、この時のゲームの障壁に対する、プレイヤーの認識というのは異なっている。

 たとえば、多くのFPSをプレイしたプレイヤーにとっては、新しいFPSゲームを始めたとしても、多くの動作やノウハウは共通している。

 この時、ゲームが用意している障壁が容易であるとは感じやすいだろう。

 逆に、そういったジャンルを全くプレイしていないプレイヤーにとっては障壁は高いものだと感じやすい。

 そういったピンからキリまであるスキルの幅に対して、適切な障壁を用意することは難しい。そのために、難易度が調整できるようになっていることが多い、というのが一つの考え方だ。

 たとえば、難易度選択などができる場合、プレイヤーの経験などを問うことは多い(そのジャンルのプレイ頻度やシリーズ作品の経験の有無など)。

 これによって、プレイヤーに対して、適切な高さの障壁を用意し、元々目指していたプレイイデアに近づけようという試みであると言える。

 蛇足だが、個人的には、この側面における難易度の設定をプレイヤーに任せるのは、あまり好ましい実装ではないと考えている。
 なぜならば、プレイヤーが自身の技量を把握すること自体がまず難しく、仮に把握していたとしても、設定をプレイヤーに委ねている以上、適切な難易度に設定されるとは限らない。
 いくつかのゲームで実装されているように、自動で難易度を調整するメカニクスを採用すべきだと考えている。(もちろん、こちらの手法にも欠点はあるが、ゲーム構造が本質的に求めているのは、このような手法だと思う)


 第二には、プレイイデアの調整だ。

 現代的なゲームは、かなり多面的であり、様々なプレイイデアを重ね合わせているようなものもある。

 データの強弱をプレイヤーが選択できるようにすることで、たとえば、あるゲームのストーリーの側面を重視したいプレイヤーに適した難易度と、バトルの側面を重視したいプレイヤーに適した難易度が選べるのだ。

 近年よく、ストーリーモードというような難易度選択が見受けられる。イージーモードという名称をプレイヤーが嫌うから、そのような呼称になっている、という説明を見たり、なんなら、クリエーター自身がそのように言ってしまっているが、このような理解は本質的に間違っていると感じる。

 易化することによって、ストーリーを楽しめることと、ストーリーを楽しんでもらうために易化することは似ているようでいて、異なるからだ。

 多面的であるゲームの中の、ストーリーを重視してプレイしたいのか、バトルを重視してプレイしたいのか、そのプレイイデアの調整弁として、モード選択があるのであって、これは障壁の高さそのものと連動してはいるものの、直接的な作用とは分けて考えるべきものだ。

 だから、極端なことを言ってしまえば、たとえば、ストーリーモードであるならば、戦闘がより盛り上がるような調整を裏でしてしまう、というような実装もアリだと思っている。これは、ある意味でそのゲームの戦闘のゲーム性を削ってしまうようなことになるだろうが、そのようなモードを選ぶプレイヤーはゲーム的なやり取りよりも、ゲームを通じたストーリーなどを体験することを重視しているということなのだから、本質的には、もっとそれを強化するようなモードであるべきなのだ。

 もちろん、このような試みはまだ発展不十分であり、効用も明確でないことから、予算が得にくかったり、このような調整は開発終盤に行われるために時間的な猶予がない、などの問題もあると思われるが、もっと積極的な理解と研究が必要とされている領域であるとも考えている。


 逆に、よく「SEKIRO」のようなゲームにイージーモードを実装すべきだ、という議論があるが、個人的にはナンセンスだと感じる。

 「SEKIRO」の難度の高さというものは、障壁の高さというよりは、プレイイデアの形成のために実装されているものだ。

 いわゆる高難度のアクションゲームやシューティングゲームには確かに、数少ない(本当に少ない)プレイヤーにしかクリアさせないつもりの難易度というものは存在するが、「SEKIRO」はそうではない。

 難易度を設定できるようにしてしまえば、「SEKIRO」が再現しようとしているプレイイデアを保てなくなってしまう。もちろん、本質的にはプレイヤーがそれを意識し、選ぶことができるのであれば、問題は生じないだろうが、実際にはそうならない。水は低きに流れ、再現しようとしていたことは達成できなくなってしまうだろう。せっかく、レベル上げという逃げ道すらも塞いで再現しようとしているものが再現できなくなってしまうのであれば、それはもう、別のゲームでよい、ということになる。

 とはいえ、どこまでプレイヤーに委ね、どこまでのプレイヤーを考慮すべきかと言うのは、かなり難しい問題だ。
 たとえば、アクセシビリティの設定を使うことで、それを必要としていないプレイヤーが難度を下げ、結果としてプレイイデアが再現されなくなるということもあるだろう。
 一方で、これらの設定が、数多くの人々に、そのゲームに触れる機会を与えており、十分に価値があるものであることは間違いない。
 ゲーム会社や、ゲーム作品によって対応がバラバラという点もあり、今はまだ模索している最中と言うべきだろう。

 このような難易度、つまり、データの強弱でさえ、障壁の高さが変わるだけに留まらず、多面性のあるゲームにおいて、どの部分が強調されるのか、という点が切り替わり、良い意味でも悪い意味でもプレイイデアが変容することもある。だからこそ、プレイしてみなければわからない。



バランス調整(本質的な必要性)

 マルチプレイヤーの対戦型ゲームであれば、バランス調整も必要になる。

 よく、どちらが勝者であり、敗者であるかに着目され、確率が見られることがあるが、では、(原理的には)確率がイーブンになるじゃんけんはバランスが取れたゲームであり、それを目指すべき……というわけではない。

 たとえば、先手・後手の確率がよく問題になるが、これは先手・後手だけで勝敗が決することを避けたい、というだけであり、確率をそのまま見ることには意味がない。実際には相性差などもあるし、本質的にはまったく平等である、ということはほとんど不可能だ。大抵、どちらかが有利になる。


 また、実力がしっかりと反映されているバランスになればよいかと言えば、それ自体をプレイイデアとしていないゲームの方が多いようにも思う。

 たとえば、「マジック:ザ・ギャザリング」において、シミックフードというデッキが一強になった期間があった。これは、一般的にはバランス調整の失敗例として挙げられるだろうが、実際には、プロプレイヤーの一部などはその状況で楽しんでプレイを行っていた。

 これらのデッキ同士の対戦では、実力が如実に表れ、細かな選択が結果に影響を与え、プレイリングを上達させる面白さがあったらしい。


 では、このような環境は喜ぶべきものなのだろうか?

 実際には、そうではなく、すぐにいくつかのカードが禁止され、そのような環境ではなくなった。では、何が問題だったのだろうか?

 この原因は2つあると考えている。

 まずは、一強環境では、事実的にデッキ選択ができない、ということだ。

 デッキを事前に構築し、選択できるゲーム(あるいは、キャラクターやロールを選択するなど、それに類するゲーム)に特徴的なのは、自身が受け取るプレイイデアをそれによって調整できる、という点だ。

 たとえば、アグロデッキを握ったり、コンボデッキを握ったり、というそれぞれのプレイイデアは、ゲームルールが共通であったとしても、異なるものになる。これはプレイイデアの調整という意味での、難易度に選択にも似たものだ。

 つまり、そのゲームにおけるどの側面を強調するのか、という点をある程度自分で選ぶことができる。(というプレイイデアである)

 一強環境では、そのような調整ができなくなり、一強のデッキによるプレイイデアを強制されることになるのだ。たとえ、それがゲーム的な勝敗という意味では、しっかりと実力を反映したもになるとしても。

 つまり、「マジック:ザ・ギャザリング」をプレイする大多数のプレイヤーが求めるプレイイデアとしては、別に強いプレイヤーが常に勝つような真剣な実力勝負ができる場(たとえば、将棋や囲碁などはそれに近い状況だろう)を『最も』求められているわけではなく、それをプレイヤーも運営も把握している、ということになる。


 次に、対戦相手のデッキ(キャラクター、ロール)などによって、プレイイデアが変質することも、プレイイデアとして求められていることだと考えている。ちょっと紛らわしいが、自分が握るデッキによるプレイイデアの意図的な調整だけではなく、相手が握るデッキにもプレイイデアが影響され、その変化そのものを求められている、ということだ。

 たとえば、コントロールを握っていたとしても、アグロと相対するのか、コントロールと相対するのか、ということで、(有利不利というだけに留まらず)プレイイデアの性質自体が変質することが多い。

 これを求めているプレイヤーも多く、そのためには、対戦相手の状況が多様であることが求められている。

 結果として、「マジック:ザ・ギャザリング」では、多様なデッキが環境にあることが求められている。それこそが、プレイヤーが望んでいるプレイイデアなのだ。だから、デッキの占有率などが問題になる。


 このように、プレイヤーにとって大切なのは、そのゲームをプレイすることによって、必要なプレイイデアを得られるかどうか、という点であり、バランス調整は、それを発生させるための手段に過ぎない。

 確率を均したり、実力を反映できることだけを重視した結果として、そのゲームに期待されるプレイイデアを提供できなくなってしまえば、それは本末転倒である。

 たとえば、デッキの種類が見かけ上は数多く存在しても、それらのデッキが提供するプレイイデアが似通ったものであれば、それはプレイヤーが期待しているものを満たしているとは言えないだろう。

 あくまで、それを再現するための手段の一つなのだ。

 そうして、こういったものが実現できているかどうかは、各データやルールだけを見ることで判断することはまだ難しいと考えている。



現実的な運用

 つまり、メカニクスの組み合わせや、その強弱、難易度・バランス調整などは、プレイイデアを変えるものになる。

 だからこそ、ゲームをデザインする時には、それを把握していないと、ちょっとした掛け違いで、求めていたプレイイデアとは異なるものになってしまうのだ。

 となれば、デザイナーはまず、プレイイデアを明確に見つけ、それを完全に理解し、それを目指して各要素を構築していくべきなのだろうか?


 ゲームをデザインする、ということは、その時点でコストがかかっているということだ。誰かの頭の中で、その電気信号が駆け巡っている、ということは、それにエネルギーが費やされている、ということであり、それは無償のものではないはずだ。少なくとも、一般的には。

 しかし、プレイイデアは一般的には複雑なものであり、それを明確化させるのは困難なことだ。いつになるかもわからないし、それが本当に価値があるのかもわからない。

 一方で、何らかの組織に入っていれば、その組織が存続するために必要な活動というものもあるだろう。

 そういったことも鑑みれば、現実的には、プレイイデアが明確化してゲームをデザインするというよりは、プレイイデアを発見する、ということ自体もゲーム開発の一部として取り込むような形にならざるを得ないだろう。


 たとえば、「ピクミン」は任天堂を代表するゲームの一つで、ゲームキューブ時代に、新たな形でシミュレーションのジャンルを切り広げた作品である、と評価することができると思うが、そのプレイイデアは最初から把握されていたわけではなく、素材やアイデアの塊が最初に用意されたゲームであったことがインタビューなどで明かされている。

 また、そもそもの『大量のキャラクターをAIで動かすゲーム』という発想自体が、ゲームハードの発展と無関係ではないだろう。

 結果として、「ピクミン」のプレイイデアが明確化したのは、開発してしばらく経った後であるようだし、それゆえにプレイイデアが完全に明確化された形で開発されていたかというと疑問が残り、実際に続編などで「ピクミン」のプレイイデアが再定義されていたことからも、それがわかる。


 他にも、「デモンズソウル」は、「ダークソウル」に繋がり、それがソウルライクという巨大なジャンルの開拓に繋がるわけだが、「デモンズソウル」自体は、筆者個人の考えとしては、ソウルライクに含まれず、あくまで高難度アクションゲームのジャンルに含まれるものだと考えている。(もちろん、それ自体が良い悪いと言っているわけではない)

 しかし、その反響や批評、振り返りを含めて、「ダークソウル」が生まれることになったのは明らかだろう。

 もちろん、「デモンズソウル」自体が、それ自身のプレイイデアを持っていることは間違いないが、「ダークソウル」のような新たなプレイイデアに到達するまで研究開発を続けていたら、どれだけの時間がかかったかもわからないし、そもそも、開発されていたのかもわからない。


 このように、その他多くのシリーズ作品でも、ゲームにおけるプレイイデアが不明な状態で出た1(無印)に対して解析・批評によって生まれた2や3(続編)が名作化する、というようなことは一般的である。

 つまり、プレイイデアが見つからないままに技術的、あるいはメカニクス的な思い付きでゲームをデザインし始めたり、商業的な理由でデザインが始まり、最終的にプレイイデアが明確化されていないままに発売されたゲームでも、長期的に見れば、ゲームデザイン全体に大きな貢献をする作品となった事例はいくつもある、ということだ。

 単純に、ゲームデザインを含む開発の過程自体が、研究開発・解析・批評そのものを内包しており、それを行うこと自体が、プレイイデアを明確化させていくプロセスの一部である、と捉えることもできるという点もある。

 ゲームデザインにはコストがかかり、それは何らかの形で負担しなければならなくなる。発売や、他の形で、それを回収し、そして、それによる批評や解析によっても、研究開発が進むことで、更なるプレイイデアの発見に繋がるかもしれない。

 そう考えれば、プレイイデアが明確になっていないことを過度に恐れる必要はなく、むしろ、許容する姿勢を取る方が、大きく見た時に得られるものが多いのではないか、と考えている。

 蛇足ではあるが、ボードゲームにおいては、開発コストがデジタルゲームと比べれば格段に低いこともあり、ウヴェ・ローゼンベルグ氏などがかなり似た作品を多く出版したり、フリードマン・フリーゼ氏などがかなり実験的な作品を連発したりしている。このような環境は、ゲームに対しての研究開発という意味で、かなり良い試みであると考えている。

 もちろん、このような言論は、ゲームの開発・プレイ・批評といった一連の流れを、過度にゲームデザインの研究に対しての営みだと見做している時点で、かなり偏ったものであることは明らかではある。

 逆に言えば、そのような偏った視点から見たとしても、プレイイデアが明確化していないだとか、新規性が十分でないと思われるとか、その様な理由は開発や発表、発売を止める理由にはならない、ということを示している。



まとめ

 エンターテイメント作品としてゲームを捉えた場合、それはプレイヤーにプレイされ、何らかの反応を再現性を持って実現することを目標としていると考えることができる。

 この反応をプレイイデアと仮称すると、このプレイイデアはメカニクスや難易度、バランス調整など様々なルール、データによって影響を受けるものであり、ルールやデータなどを見るだけで判断することは難しい。

 だからこそ、プレイイデアを明確化して、ゲームデザインを行うことが大切ではあるが、一方で、プレイイデアを明確化することは同様に難しい。

 結果として、プレイイデアを発見する前からゲームデザインが始まることも一般的であり、そのゲームが発売され、批評されることによって、ようやく明確化することも珍しくない。そして、そのようなゲームが、ゲームデザインに対する大いなる一歩になることもある。

 つまり、各ゲームをデザインする際に必要なことはこうなる。

 統合的に表れるものが肝要であるが、それに縛られる必要はない。


 この記事が何らかのきっかけになれば、それに勝る価値はない。

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