東浩紀vsひろゆき
この表題の動画を見たことがあるだろうか。ニコ生思想地図にて、ひろゆきに「哲学や思想書は知識を得られないから読む意味がないじゃないですか」と問われた思想家・東浩紀の答えに「知には反復可能な知と反復不可能な知がある」とあったのだが、ひろゆきがすぐに納得したせいもあって、見てるこっちもまるで理解したかのような錯覚に陥っていた。というのも、私が友人にこの動画の事を説明しようとしたのだが、自分でよく理解していないことがわかった。
この動画にて、哲学や思想が科学のような知識を有さない事の説明方法に悩んだ東浩紀はテーブルの上にあったペットボトルを手に取り下に落としてみせ、これは何回繰り返しても落ちる、これが「反復可能な知」であり、それに対し「歴史」は繰り返すとそうじゃ無くなる、一回しかないものの知「反復不可能な知」、「学問」の条件は反復可能であることで、哲学や思想は反復不可能な知識としてそれらの学問の外におかれがちになり、それが大きく言えば所謂、文系と理系と言われる物である。
とのこと。自分なりに咀嚼してみようと思う。
「歴史は繰り返すとそうじゃ無くなる」というのは、時間が1秒経過した場合、すでに同じ1秒前を反復できないという事で、数分後には何度も落下させるのを見かねた人が突然現れてキャッチするかもしれないし、NASAの無重力空間内に移動した後に手からペットボトルを離した場合には、それは全く落下しないという結果になる。現時点での「1+1=2」は反復可能だが、ここに歴史経過と共に何らかの新たな概念や条件が付いた場合を考慮すると反復不可能となる。
反復可能な知というのは、ある時点の条件を保った状態の結果のことであり、時間の経過によって、なるであろう結果が担保されない反復不可能な知は常に正しい知識では無いために、ひろゆきは意味がないと言っているのだろう、、
と私は解釈した。