02/07/2020:『Vengo de La Casa de Ella』
畑 1
見渡す限りのプラタノの木が纏わりつくような熱気の中で密生していた。鮮やかな緑色の葉、しなやかに伸びる鱗状の幹。僕はラジョと一緒に歩いていた。くたくたになった半袖シャツに所々茶色い染みができたジーンズはこの畑の正装だと言う。染みはプラタノを切る時に出てくる樹液が茶色く滲んだものだ。いくら洗濯しても取れないその染みを見て、
「なかなか一人前になってきたわね。」
と、ラジョの母さんはよく呟いた。
玄関でゴム長靴に履き替え、30年落ちのフォード・トラックに乗り込む。ラジオやクーラーはとうの昔に壊れ、ダッシュボードは穴だらけだ。ラジョは僕より背が20cmも低い。運転席に座ってもギリギリ前が見えるかどうかで、ペダルに足を目一杯伸ばしてアクセルを踏み込む。
泥濘んだ穴だらけの農道。爆撃機のようなエンジンを響かせて僕らは畑へと向かう。
「この畑はじいさんが全部切り開いたらしい。馬に乗ってマチェーテを振り回しながらね。」
初めて畑を案内してもらった時に、彼は誇らしく語っていた。
その時の僕はまだ肌が真っ白で、彼の言っていることの半分も理解していなかった。
見上げる空には赤道直下の太陽。今はどんだけ汗が流れても、もう気にしなくなった。
1年も経てば、そんなものだ。
・・・
学校 1
エリスは少し癖っ毛で、額の産毛がクルッとなるところがかわいい。小さい顔に長い手足、そばかすを優しく散りばめた彼女の笑顔にラジョは夢中だった。
彼女はクラス委員だったから、みんなからの信頼も厚く、勉強もできた。だから、僕の世話係として立候補してくれた。ブロック塀を積み上げ、トタン屋根を被せただけの教室には、熱で歪んだ黒板と裸の蛍光灯。山村の貧しい学校に予算はない。教科書は先生しか持っていないから、授業のほとんどは口述筆記に当てられる。本を片手に机間を練り歩く先生。一字一句漏らさぬように耳を立てる生徒。僕は何が起きているのか、全く分からなかった。わかるわけがない。4日前まで日本にいたんだから。
エリスはそんな僕の隣に机をくっ付けて、自分のノートを見せてくれた。一文字一文字、丁寧に書かれていた。僕は内容もわからず、ただ彼女の字を追った。
それは彼女の前髪のように、クルッと丸まった優しい字体だった。
そして、ラジョはそんな僕らを教室の端から見ていた。
・・・
畑 2
村の市場にプラタノを卸す。だから、今日はトラックを一杯にしなければならない。プラタノはバナナの一種だが、大きく固い。一つ一つが2Lボトルのようなサイズだ。そしてそれが普通のバナナのように束になっていて、おまけにその束が縦にいくつも連なって生っている。ちょうど神主がもつおおぬさのような感じだ。
ラジョはマチェーテを使って、幹からプラタノのおおぬさを切り落とす。僕はそれを肩で支えると、ラジョがそのまま前に回り込み、二人で神輿のように担ぐ。農道脇に停めたフォードまで運び、荷台へと積んでいく。
「死体を運んでるみたいだな。」
と、ラジョが呟いた。
「本当だ、確かに”ラジョ”って書いてある。」
「バカ言え、この間までその文字も読めなかったくせに。」
僕らは汗だくになって運んだ。シャツは汗を吸い込み、茶色いシミがジーンズに広がる。
目標の3分の2まで積み終わって、荷台で水を飲んでいた時、曇り始めた西の空に気がついた。
が、もう遅かった。
もう僕らは空から降ってきた海のような雨に打たれて始めた。
そして二人目を合わせると、笑いながら畑へと駆け戻っていった。
・・・
学校 2
エリスは幼児の頃から、呼吸器系の病気に悩まされているせいで今でも激しい運動ができない。だから体育の授業は見学している。体育館のスタンドに座って、興味なさげにとコートを眺めている。
一方のラジョはどうしてもいいとこを見せたい。走り回ってボールを追いかけ、誰彼構わず檄を飛ばす。チームワークを乱しているとしか思えないラジョのプレーは、周りの仲間を苛立たせた。体の小さいラジョが見せる動きは、面白さ半分、哀れみ半分。背の高い奴らからは完全に笑い者になっている。
それでもラジョは汗を飛び散らし、肩で息をしながらも足を止めない。
怒りと嘲笑のボルテージが振り切れる頃、ラジョがボールを奪った。
そして、なりふり構わずシュートを放つ。
ボールがネットを揺らす。ラジョはスタンドを見上げた。
エリスは笑っているように見えた。
・・・
墓地
キレイな空だった。ゆっくりと漂う雲が風の柔らかさを体現しているようで、掘り返した土の匂いに膨潤な蓋をしていた。
普段はバカみたいにふざけている人たちも、誰かが亡くなった時には厳粛で、その静謐さを守る姿は今日の死の悲しみを余計に際立たせた。
クルッと丸まった前髪はいつも通りで、美しい黒のドレスに身を包んだエリスは、もう決して目を開けることはない。僕の隣で字を書く彼女の横顔を思い出す。だんだん丸くなっていく鉛筆の先に、埋められていく白い行間。
ラジョは白い花を一輪、手に持ったままエリスの脇に立っていた。ボサボサの髪も今日はしっかりとジェルでなでつけ、ネクタイも結んでいる。エリスを見つめる彼の眼差しは決してぶれることなく、また乾くことのない潤いに包まれていた。
あの日、ラジョはゴールを決めた勢いそのまま、放課後、彼女を呼び出した。
生まれて初めての告白に、アドバイスを求められた僕は、
「差し出す手は、添えるだけ。」
とだけ、答えておいた。
二人の足音を昇降口で待っていた僕が見上げた空も、今日のような空だった。
しばらくすると、ラジョが持つ白い花とともに、エリスは風に揺れて運ばれていった。
・・・
畑 3
右も左もわからなくなるほどの雨に打たれながら、僕たちはプラタノの神輿を運び続けた。耳にも鼻にも雨と汗が入り込み、泥だらけになった僕らは、悪態をつきながらも、なぜか大笑いで作業を続けていた。
僕がこの1年間で覚えた汚い言葉。それは全てラジョが僕に教えたものだ。
学校では使えないそんな言葉を、土砂降りの下、永遠に続くプラタノの木々の下で叫び続けた。ラジョは泥に嵌るたびに大声で叫び、僕は横にふらつくごとに吐き捨てた。
なんども何度も、僕らは叫び、そして笑った。
最後のプラタノを荷台に放り込むと、僕らはフォードに乗り込んだ。
全身ずぶ濡れだ。
僕は体をタオルで拭きながら、話の続きをしようと左側の運転席に目をやった。
ラジョは顔を拭きながら、涙をぬぐい、雨の音で誤魔化すように声を漏らしていた。
エリスが降らせた雨はフロントガラスを激しく叩きつけ、僕らをそこに押しとどめた。僕の隣で丸っこい字を書いていた印象とは全く違う、鋭くて重くて、心に痣ができるほどの雨だ。
ラジョはその痣をずっと胸に抱きながら嗚咽を漏らしていた。決して手当てをすることもなく、ずっとずっと体に残しておこうと決めたようだった。
降り続く涙。
僕は、彼の肩に添えるように手をかけた。
そしてラジョとエリスに教えてもらったはずの、一番優しい言葉を探し続けた。
・・・
今日も等しく夜がきました。
自分はどこまで共有できるのか、いつも誰かがいて初めて気がつきます。
El Rookieで『Vengo de La Casa de Ella』です。