17/08/2020:『Naima』

道 1

マイクロバスはもう何時間も雨の中を走っていた。町外れの湿地帯の上には濡れたバスタオルみたいな雨雲がずっと先まで続いていて、窓ガラスを無数に伝う雫がその景色をぼかすようにして流れている。クーラーが効き過ぎているから、僕は上着のフードをかぶって、大きめのストールを毛布代わりに全身で被っていた。斜め前のカップルは互いに引っ付いてぶるぶると震えていた。きっとこの世界にはもう2人しか残っていない、そんな身の寄せ合い方だった。

二、三日かけて遺跡を見た。栄華を誇っていた歴史も800年経つと、その寺院の大部分が蔦に巻かれ大木が隆起することで、ただの自然の一部に成り代わっていた。それでも石像が持つ切れ長の眼差しはどことなく色気を醸し出していたし、古代文字は絡まり合う情念をそのまま焼き記したように掘られていたから、ある意味では自然と文明がせめぎ合うような、でも調和を図るような力で溢れていた。

バスで国境を越えることに何の疑いも持たなかった。宿の受付で聞いてみたら、

「あら、10時間くらいかかるけど、大丈夫?」

と、少し驚いた顔をされた。

「地面の上で生きているっていう感覚がどうしても欲しいんです。」

と、答えておいた。

「少しわかる気がするわ。」

と、彼女は笑いながらバスの予約を取ってくれた。

「明後日の朝、6時に出るわ。」

「はい、お願いします。」

彼女の左手首には小さく花の刺青が入っていた。

悪くないな、と思った。

                 ・・・

宿 1

彼女は生まれつき色弱だったらしくて、今でもこの世界をほどんどモノクロのレンズを通してみていた。

「空が青かったり、夕日が赤かったりと言うけれど、イマイチわからないの。だって、青も赤も、それ自体分からないんだから、そんなのって意味あると思う?」

オフィス街の一角にあるオフィスビル、その非常階段。缶コーヒー飲みながら一服していた僕らは、午前中から営業部が取ってきた仕事に振り回されながら、果てしない表計算に溺れていた。

「大丈夫。このビルの中も周りも色なんてないよ。」

と、僕は言った。実際、陽の光もまともない入らないこんな湿っぽいビルの裏手なんか掃いて捨てるほど、燃やして灰にするほどに匿名で質感のない場所だし、別に色の有る無しなんか関係ない。

「それに、誰かの青は僕の青じゃないかもしれないし、遠くの赤は近くの赤とは全く違って見えることもある。人が見てる世界ってそんなもんなんじゃないかな。」

僕は灰皿にポンとタバコを投げ入れた。水に落ちて、じゅっと火の消える音がした。

「でも、誰にとっても黒は黒でしょう。夜は夜でしょう。そしていつでも白は白。雪は雪。どんな色でも突き詰めれば黒だし、解放していけば最後には白くなるのよ。」

と、彼女は言った。

そしてそのままビルの中へと戻っていった。

「ビルの中は何色だったっけか。」

と、残された僕は思った。

                 ・・・

宿 2

「彼女はそのあとすぐ仕事を辞めちゃって、連絡がつかなくなりました。」

宿の共同ダインングでタバコを吸っていると、受付の彼女がコーヒーを持ってきてくれた。

「しっかり豆から挽いてるから美味しいわよ。」

と、言った。確かに美味しかった。湿った午後の空気に亀裂を入れるような苦味と、それを塞ぐような香ばしい香りだった。

「見えていると思っていたものが、実は全然見えていなくて、少なく持っている人の方が本当は豊かで。そんなこと考えているとエクセルに打ち込んでいた月間売上とか出張費の精算とかが、僕の中で少しずつ周縁の方に追いやられていったんです。」

「だから、こうして遺跡を見にきたわけ?」

「はい。もちろん、仕事は綺麗に片付けて、有休を取って。」

「あら、意外としっかりしてる。」

揺れるコーヒーの湯気。手首の刺青は袖に隠れて見えなかった。

宿の共同キッチンには他のホステルの例に漏れずに旅人ノートのようなものが置いてあって、そこには何百人とこの宿を訪れた人たちの文字が記されている。ただページをめくるだけでも、その人の旅を覗き見ることができるから孤独を紛らわすことができた。

その中には、僕のように決められた期間だけを旅にあてている人もいたし、また無期限に世界を歩き回っているような人たちの記述もあった。

「すみません、あなたはどうしてこの宿で働いてるんですか?」

と、聞いてみた。

「うん。」

と、静かに頷いて、ゆっくりと言葉を紡いでくれた。

                 ・・・

道 2

ガソリンスタンドに寄った時、

「20分くらい休憩です。」

と、運転手が言った。

相変わらず雨は降り続いていて、僕はフードを被ったまま外に出た。前にいたカップルも後から顔を出して、

「寒すぎるよな。」

と、いう顔で僕に目配せをくれた。

併設されているキオスクで温かい紅茶を買った。ミルクがたっぷり入っていて、喉を通るたびに熱が体の中心から放射状に広がっていくように感じた。

彼女は、旅の途中でパートナーを失いーこの世界からなくなった、という意味でー、そこから先に進めなくなってしまった。跡形も無くなってしまったパートナーと同じ名前の花を腕に記すことは、何か巨大な見えないものを背負い込んでしまうことになる、とわかった上でそこに刺青を入れた。

「だから、私はここからもう動かないわ。」

と、言っていた。

「本当ですか?」

と、聞いた。

「うん、先がわからないくらい、しばらくは。」

僕は腕にも肩にも背中にも、何も印のようなものは持っていない。ただ記憶として形なく細々としたものを溜め込んで、たまにそれらが関連し合って大きなものを理解するに至る。そうやって生きてきた。

きっと、この旅もその細々とした記憶の1つとして、蓄積されることになる。

雨は同じスピードで降り続けている。車が通るたびに水しぶきの音がして、孤独から少しだけ解放してくれるような気がした。

バスのエンジンがかかった。カップルが今、乗り込もうとしている。

僕はベンチから立ち上がると、水溜りを避けて歩き出す。

バスの中は、さっきよりも少し暖かくなっていた。

                ・・・

今日も等しく夜が来ました。

John Coltraneで『Nima』。



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