23/08/2020:『Hericane』
今 1
台風が近付いて来ているからその日はとても風が強くて、波の高さも決して喜ばしいものではなく、僕らは少し肩をすくめて歩いていた。どんよりとした曇り空はまだ夏の湿気を空から押さえつけているようで、いくら風が吹いても涼しさは感じられない。
30分くらい前から軽く雨がぱらついていたけど、僕は気にせずそのまま歩いていて、でも彼女は傘を差したがったので、僕が持つことにした。
駅前の小さな商店街を抜けると下り坂に沿って住宅街の路地を歩いた。
「ごめんなさい、靴紐がほどけちゃいました。」
と、彼女は言うとそこにしゃがみ込んで結び始めた。
「道の真ん中で危ないから、そこの駐車場に行こう。」
と、僕は言ってコインパーキングの縁石を傘の肢で差した。
業者の軽トラとワンボックスカーが1マス空けて停められている。
僕も彼女に合わせて傘を持ったまま一緒にしゃがんだ。縁石の根元からは雑草が少し生えていた。
「優しいですね。」
と、彼女は立ち上がりながら言った。
「そうでもないさ。」
と、僕も合わせて答えた。
海岸通りまで出て、そのまま西の水族館へと歩く。
風は僕らの傘をずっと揺らし続けていた。
・・・
昔 1
生姜とネギを多めに刻んで、油を引いた中華鍋に放り込む。火を強めた後は、割って掻き混ぜた生卵ー調子がいいときは2個ーを入れて、まだ水溜りみたいに揺れている間に半解凍しておいたご飯を滑り込ませる。
部屋の角に置いたデスクトップからは適当な曲が流れて来ていた。自分のitunesにあるはずの曲なのに聞いたことがあるのか記憶があやふやだった。
塩と胡椒を自分が思っている以上にかけると、最後にお醤油をかけて終わり。
深めの皿によそってシンクの脇に置く。後でするのが嫌だからそのままフライパンを洗ってしまって、やっと6畳半のテーブルに座った。
エアコンが効いた涼しい部屋には段ボールが乱れていて、それでも大体いらないものは捨てたし、実家に送るものはもうまとめてあったから、あとは目の前の本だけだ。
「この本、貰っていってもいいですか。」
と、彼女は言った。壁には長い学生生活の中で読み耽った本たちが煩雑に積み上げられていて、その中の一冊を手に取っていた。
「そんな汚いのでいいの?」
と、訊いた。何度もなんども読んでヨレヨレになった表紙。彼女はコーヒーのシミがついたページをパラパラとめくって、
「はい。だってこれ、好きなんでしょ。」
と、言った。そして、裸のままカバンに入れると満足そうに頷いた。
7年間チャーハンだけは気が狂ったように作り続けた。僕の青春時代を彩る数少ないエレメント。そのうちの1つと言ってもいい。「いつも通りだな」と思いながらレンゲで掻き込んだ。
そのいつも通りも、もうすぐ終わる。来週の今頃はもう僕がこの部屋にいた形跡は跡形もなく綺麗にされて、全てがリセットされる。
昨夜、彼女はカバンを肩にかけると、
「あなたの一部をもらったから、もう大丈夫。」
と、言ってドアを閉めた。その一部とはもちろん古い文庫本のことで、そしてそれはチャーハン同様、僕の青春のエレメントであった。
デスクトップから流れる曲が変わった。
でも、誰が歌っていたのか、タイトルすらも思い出せない。エアコンの風が首元の汗を撫でた。
僕はそのまま静かに食事を続けた。
・・・
今 2
メインの水槽を取り囲むように設置された螺旋状の展覧通路を下る。たくさんの魚たちがぐるぐる泳いでいる下で、見つからないように海藻に隠れたカニが現れたりした。そしてガラスに張り付いたヒトデに手を合わせたり、マンタの陰に隠れたりしながらどんどん僕らも海の底へと潜っていく。
「2年ぶりの日本がこんなんでいいんですか?」
と、彼女が言った。
「もちろんさ。だって、向こうには水族館ないもの。」
と、答えた。静かな優しい闇の中で、ただ音もなく泳ぎ続ける生物たちは僕の心をすーっと落ち着かせるようだった。
僕らは手を繋いだり、繋がなかったりして奥へと進んだ。
「あの本、読みました。」
彼女はクラゲの水槽を覗きながら言った。クラゲの展示コーナーには大小たくさんの水槽が壁に埋まるようにして並んでいて、入り口から覗いただけでは、もしかするとお花屋さんにも見えるくらいだった。
「なんであなたがあの本が好きなのか、少しだけわかる気がします。」
白く同時に透明なクラゲたちは、赤ちゃんを包むガーゼケットみたいにその襞がガラスの向こうで揺れている。難しいラテン語の学名が彼らの本当の名前で、でもここにいる全ての彼らは日常生活でそんな風な呼び方はされていない。
「僕のエレメントだからね。」
と、言ってみた。
「え、ごめん。何て言ったんですか?」
と、彼女がこちらを振り返った。
「ん、なんでもないよ。あれ、あっちにもクラゲがいるね。」
僕らはそのまま咲き乱れる花の中を進んで行った。
僕らを形成するのは見えない要素が主になっていると思う。経験や記憶、悲しみや孤独など。でも、その見えない要素を生成し保存したり、あるいは再生や加工をするためには、物理的刺激に頼るしかない。雨や風や、水槽や本だ。それがスイッチとなり、眠っていた思い出が記憶のファイルから引き出されて、そのまま机の上に広げられる。一度なぞったはずの経験なのに気がつくとそのパラグラフには混ざるはずのない項目が書き足されていて、でも人は何の気なしに読み返すと、そのまま閉じてまた引き出しにしまう。
僕のエレメントが彼女の記憶や感情を経由して、また僕のファイルの中に収まる。
そして開いたファイルのページには、2年前とは違った、2年前の記憶が書かれている。そして適当に読み返して栞も挟まずに閉じてしまう。
「こっちのクラゲ、綺麗ですよ。」
と、彼女が言う。
次にファイルを開くときは押し花みたいなクラゲの挿絵があるような気もしたが、そんなこと考えたその瞬間には、もう引き出しは後ろへと追いやられていて、
「うん、今行く。」
と、僕は歩き出した。
小さなライトに照らされた花を背景に、彼女が僕を呼んでいた。
・・・
今日も等しく夜が来ました。
LANYで『Hericane』。