01/08/2020:『Moon River』

ガタガタと音を立ててエレベーターが上る。照明が薄暗いことと、階数表示も壊れているから今が何階なのかがわからない。

僕は1人、

「大丈夫か、これ。」

と、つぶやいた。

予約した宿は、この地区に広がるマンモスマンションの一室のようだ。それをホテルと名打って旅行サイトに登録しているとこも図々しいし、建物もきっと築30年は経っているであろう古い鉄筋コンクリート造だった。

空港からタクシーに乗って40分。

「ここだよ、ここのどれかだね。」

と、バランスボールみたいば恰幅の運転手に言われて、そして道においていかれた。

人々がひしめく雑踏、色めくネオン、屋台の食べ物と路地裏の下水の混じった匂い。空は狭くて、マンモスマンションが全てを覆っていて、その部屋の数は本当に氷河期ピーク時のマンモスたちくらいだった。

「ここのどれなんだよ。」

人に聞くしかない。日本にもあるコンビニチェーンのロゴが目に入る。細長い敷地に、隙間店舗という感じの佇まい。レジ横のガムコーナーから首を伸ばしてスマホをかざしながら店員の女の子に聞いてみる。

「ここ探してるんだけど、わかる?」

「あ、それ。ここだよ。上。入口は、そこ。」

彼女は最初に下(ここ)を指差し、次に上、最後に右の方(外)を指差しながら教えてくれた。

化粧っ気のない切れ長の目、鼻の左側にピアスの穴が空いていた。

言われるがまま道に戻り見てみると、鉄格子のような扉の横に乱雑に貼られた広告シールに混じって、僕が予約した宿の名前を見つけた。辛うじて残っているインターフォンを押す。32階。押したこともない階だ。

「はい、どちら様。ええ、ちょっと待って。あ、はい、どうぞ。」

名前を告げると、ブザーが鳴りドアが開いた。そのままエレベーターに乗り込む。

扉が開き、そこは一応受付で、デロンデロンになったTシャツに短パン姿のきっと僕よりも若い女性が子供を抱きながら座っていた。

名前を書くと、鍵とバスタオルをもらった。部屋はその階ではなく、階段を降りた31階にあるという。寂れた研究所みたいな鉄扉を開けると、点滅する蛍光灯に照らされた階段があって、そこだけが温度も湿度も違う世界だった。

「見えてる世界なんてほとんど嘘なんだよ。本当の本当は見えないところ、内側にしかないんだから。」

と、昔誰かが言っていた。

僕はその言葉を思い出しながら、階段を下りた。

                 ・・・

僕の発表は初日の朝一だった。大学のコンベンションセンターで行われる三日間の学会では、テーマごとに部屋が割り当てられていて、参加者は興味のあるセッションに合わせてぞろぞろと移動する。

朝の時間帯ということもあって、教室の雰囲気も容赦と厳しさがいいバランスだった。持ち時間を少し余らすくらいの発表をして、質疑応答も何となくこなしたら、僕のこの国での義務は終わった。

ケータリングのコーヒーをもらって、裏庭へ出る。灰皿の前にベンチが置いてあったから、一服することにした。

「こんな街中に大学かぁ。」

僕は今まで自然の中にある学校でばかり勉強してきたので、こんな急に街中に、しかもビル群の中にある大学は新鮮だった。その大学自体もビルだったから、なおさらだ。

昨日はそのまま部屋に入ると寝てしまった。お腹は空いていたけれど、機内食で出た夏休み前の上履きみたいなサンドイッチとボトルウォーターを持ち帰っていたので、それを食べた。あとはもうシャワーも浴びずにベッドに潜り込んだ。

このまま会場に残って他の発表を聞こうかと思っていたが、プログラムを見る限り、今日のところは僕の興味をそそるものは見当たらない。こうなるともう部屋に戻ってスーツを脱ぎたい。

今日は少し街を歩くことにしようか。

会場を出て、バスに乗る。プラスチックの椅子は固く、道路の継ぎ目ーなんでそんなものがあるんだろうーを越えるたびに突き上げられるようにお尻が痛んだ。

湾に沿って走るバス。右手のずっと先、対岸の摩天楼は街のスモッグでてっぺんが見えないくらいに伸びている。両岸の間を連絡船が運行しているようだ。

「夜はいいだろうな。」

バスはそのまま左に逸れて、マンモスマンション地区へと進んでいった。

                 ・・・

宿へ戻り、着替えるついでにシャワーを浴びた。

そのまま楽な格好にー黒ジーンズにバンズのスリッポンー着替えて、エレベーターで下まで降りる。さて、どうしようかと思ったときに、昨日のコンビニが目に入った。

「やぁ、何度もごめん。」

彼女は今日もレジに入っていた。他のお客さんがいなくてよかった。

「ご飯を食べに行こうと思うんだけど、どこか美味しいところはあるかな。」

我ながら不躾だとは思ったが、今のところ、この国で一番信頼できるのは彼女だった。

「あと30分で上がるけど、待てる?」

コンビニのカップラーメンでも勧められると思ったが、それ以上の答えをもらうことができた。

「もちろんさ。迎えに来るよ。」

僕は1ブロック歩いたところにある広場に古いベンチを見つけた。そのまま横になる。垂直に立っているはずのマンモスたちは、こうして直接的に真上を見上げると、こちらに覆い被さってくるように見える。今がここが氷河期だったとしたら、槍や斧だけではとても勝てそうにない。

飛行機が狭い空を横切る。

空の上から見えるマンモスはさぞかし小さいだろうな、と思った。

                 ・・・

30分はすぐに経った。彼女の服装は緑の制服から白いシャツに変わっただけで、あとは僕の同じようにラフな格好だった。

「連絡線に乗るんだけど、いい?」

「もちろんさ。素晴らしいよ。」

僕らは船着場へと歩き出した。

聞くところによると彼女は、僕が日中いた大学の学生だということだった。どうして授業に行かないのか聞いてみると、「だって週末じゃない。」

と、視線を動かさずに答えた。そうだった。学会はいつもそうだ、なんでこんなことを聞いたんだろう。

船着場には思っていたよりも人がいて、観光客だけではなく地元の人々も多く見えた。みんな対岸の家に帰るのだろうか。家ならこちらにも死ぬほどあるのに。と彼女に伝えようかと思った時、
「こちら側にもあるということは対岸にもあるの、同じくらい死ぬほどね。今に分かるわ。」
と、軽くあしらわれた。

彼女は定期券を持っていたので、僕だけが1人分の乗車券を買った。緑色の滑り止めゴムで覆われたタラップを歩く。寄せる波、揺れる船体。
乗船してすぐの階段を降りたスペースに席が並んでいて、我先にと乗り込む人で埋まっていく。でも、僕らはその流れを無視してそのままデッキへと向かった。

日が傾くと、昼間見た摩天楼に明かりが灯り出した。先取りされた夜はその明かりに約束されているのだろうと思った。浜辺を一日歩き回って集めた貝殻やカゴいっぱいに詰めた花のように、青が深まる夜の中で輝いていた。

潮の香りと爽やかな風が向こうから歩いてきて、何も言わずにそのまま僕の脇を通り過ぎいていく。

「毎日こんな綺麗な夜景を見ているんだね。羨ましいよ。」

と、彼女に言った。

すると、

「見えてる世界なんてほとんど嘘なのよ。本当の本当は見えないところ、内側にしかないんだから。」

と、答えた。

僕らはそのまましばらく黙って波に揺られ、ゆっくり進む船に身を任せた。

ちょうど半分くらいの距離に来た時、僕はさっきまでいた方の岸を振り返った。

マンモスマンションにも明かりが灯っていた。昼間の圧迫感が和らいで、静かにそこで輝いていた。均一な表情が余計にその光を強調していた。マンモスたちが、岸まで押し寄せる。身を寄せ合い、夜を迎えるのだろう。
僕は無数にうごめく明かりの下に暮らす人たちのことを考えた。

そこには、さっきまであの狭い部屋にいた僕の姿もあるはずだ。

「それで、私の知っているお店でいいのね。」

僕は再び対岸に視線を戻すと、

「もちろんさ。」

と、言った。

連絡船は風を受けて進んでいく。

本当の本当の内側にしかないものについて僕は考えた。

彼女はそれっきり、ただ対岸を見ていた。

                 ・・・

今日も等しく夜が来ました。

2人の漂流者は飛び立ち、そして世界を見下ろす。

Frank Oceanで『Moon River』。


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